2012年11月30日金曜日

11月分報告書


 今月初めに、2番穂を待っていた部分の稲を刈り終え、全ての稲刈りが終了しました。その待っていた2番穂に関しても全部が全部上手く実っていたわけではないのですが(むしろ不出来なものの方が多かったです)、わがままを言って、刈った分全てを脱穀していただく運びとなりました。付き合って下さった共育学舎の皆さんに感謝します。


さて、今年半年の大部分の精力を注ぎ込んで邁進してきた米づくりですが、出来栄えは、と言えば…失敗と言わざるを得ません(苦笑)。「今年はどこも悪かった」というような慰めの言葉を皆さんから頂戴しています。まぁ、雨季が授粉期に重なってしまった等、人為の及ばない天災も確かにあることにはありましたが、水管理がまずかったとか、根を張る時期に(草取り)田んぼに入り過ぎたとか、防げた要因、素人農法でまずかった部分も多分にあるでしょう。ただ、残念だといえば、残念ですが、不作とはいえ無事収穫を終えられたことにはただただ安堵していますし(夏は台風が来るたびにずっとびくびくしていました)、やはり感慨深いものがあります。

学生中に一度作物を紛いなりにも育て上げることを体験できたことは、自分で言うのも何ですが、とても大きなことだったと思います。基本的には人間の手なんて借りずともすくすく育つ作物の逞しさを知りました。一方で、そんな中でも人間の手が必要となる局面がいくつかあって、その要所要所の、やり方、タイミングの見極めの難しさもよくよく分かりました(難しさが分かったというだけの話で実際にちゃんとできるようになるのは先の話です)。こう、半年を振り返りながら文章を書いていると、本当に充実した毎日だったなぁと何だかほっこりしてきます。


「兄ちゃんは農家じゃないんだから、失敗も研究、経験ってことでええじゃないか」と集落のおじいちゃんに言ってもらいましたが、正にそうだと思います。仮に田舎に生活の基盤を置いていて、収量が少なかったら生活にモロに響くでしょう。そう考えると、絶対に避けたい失敗を、大学を出てからではなく今出来たことには少なからぬ意味がある、今はそんな風に捉えています(些かポジティブすぎるでしょうか)。違うおばあちゃんには「また、作りゃあえぇ」とも言ってもらいました。

僕もどのタイミングになるかは分かりませんが、必ずまたやりたいと思う。やはり、何だかんだで、たわわに実った稲穂が深々と首を垂れる稲穂は見たい!()そういった、モチベーション上の意味でも、第1回目がこういう結果で却ってよかったのかもしれません()。実際の収量はイマイチでも自分の中では大きな収穫があった米作りでした。という訳で、記念すべき第1回目の米作り、無事終了です。


併せて、温めに温めてきた()「熊野川翔学米」の封を同じく今月初めに、ようやく切ることができました。当初は「地元の若者支援」と「地元農家支援」の2つを軸に制度設計を進めてきましたが、他にも大切にしたいこと、取り組みたいことが後付け的にたくさん出てきました。企画の概要はHPhttp://simy.fem.jp/kumanogawa-shogakumai/sg.htmlを参照していただくこととして、ここではそこに載せ切れていないことを少しだけ書きたいと思います。


企画着想当初は、新宮市の一学年分全員を無償で海外に行かせられたらなぁ…なんてことをおぼろげながらに考えていました。でも、今はそれほど事業規模を大きくしたくない。むしろ大きくし過ぎてはダメなんだろうな、と考えています。まず一つは単純に、規模を大きくし過ぎると、お米を捌くことで手いっぱいになって、元々大切にしたかった所から乖離してしまう気がするからです。


むしろ小さい規模の営みであることに積極的な意義を見出したいとも思っています。何かソーシャルビジネスや社会貢献のために全てを注ぎ込むという人生はそれはそれで素敵なことです。ただ、私は、それを専業にしなくても、自分の生活を崩さない範囲で他のこともやりつつ…というスタイルでも出来ることはある。一握りの天才ではなくて(もちろんそういう人は必要です)、私のような平凡な個人でも、12つと自分の生活の中から出来ることを見つけて仲間と一緒にそれを手掛ければ、小さいながらもそれなりに有為で楽しいことができる、ということを示したい。

そんな動きがいくつもいくつも積み重なって、各地に拡がっていて、じんわりじんわりと社会が動いていく。そういう潮流が起こったら、面白いだろうなぁと思うのです(柴田さんも「11プロジェクト」の時代になったらいいよね、といったようなことをおっしゃっていました)。…まぁ、まだ実際に何もなしえていないのにこんなこと言うのはなんですけどね(苦笑)


対外的なPRとしては、柴田さんとしみーさんの悪ノリに背中を押される形で、2日の真夜中に自分のFacebookTwitterでは告知をしたことに加え、中日新聞さんの地方版とそれをチェックしてくれた日本農業新聞さんには取組みを取り上げてもらえることになりました(全国紙デビュー!笑)。今後の拡がりに期待したいところです。自分も中高生向けの企画の本格的な立案等できる限りの努力はしたいと思っています。


今月はお客さんとしてニートの達人と非常にユニークな方々が続けざまにいらっしゃいました。1人はphaさんという方で、もう1人は勝山実さんという方です。片や、日本で一番有名なニートと目され、片や引きこもり菩薩の異名を持っているという異色のコンビです()

 Phaさんは並河さんが中心となって行っている「就活にモヤッとする人へ」通称「しゅ~もや」なるイベント@京大熊野寮http://syumoya.blogspot.jp/2012_11_19_archive.htmlにゲストとして呼ばれ、そのまま並河さんに拉致()される形で敷屋までお越しになり、勝山さんは、和歌山県田辺市の講演のついでに、上富田在住で共育学舎と交流のある竹中さんという方に誘われてこちらまで遊びに来て下さいました。

 どちらのblogもお越しになるまではチェックしたことがなかったし、どちらのご著書(phaさんは『ニートの歩き方』、勝山さんは『安心引きこもりライフ』、『引きこもりカレンダー』という著作をそれぞれ上梓されています)も未だに読んでいないのですが、お2人との出会いは私にとってかなりショッキングなことでした。ナリワイの伊藤さんとはまた別の形で(といっても共通する部分も多いですが)、これからの生き方を考える上での示唆をいただいたからです。


従来自明のものとされてきた価値観やシステム、成功ルートであったりに依存して生きることの危うさ、おかしさは、今、多分少なからぬ人が感じとっているのだろうと思います。ただ、そこでの難しさは、「人の言うこと、世間の常識に頼らず(というよりかは頼れなくなり)、それに代わる価値観や、その価値観に基づく生き方を自ら創りあげていかねばならない時代になった」ということです。上手いこと自分なりの軸を築くことに成功し、それを活力の源としている人が今一般に成功者として注目されている人たちなのでしょう。それは自分には無理だと諦念して、「危なっかしくはあるけど何だかんだでまだしばらくは保つであろう」既存のレールに再び乗っかっていく人もいることでしょう。この自分の内面の軸を築く課程を、問い抜くにしろ、割り切って放棄するにしろ、そこへの向きあい方が中途半端なままでは今の時代はレールに乗るも地獄、乗らぬも地獄ということになるのだろうな、と思います。


そんな時代の中で、今、phaさんや勝山さん、あるいは三枝さんの「ただ生きている、それだけでもいいじゃないか」というニート・引きこもりの思想、生き方が世に問われるようになったことは非常に意味のあることなのだと感じます(特に先述のphaさんの『ニートの歩き方』はかなりのベストセラーらしい)。閉塞しきった日本の社会に僅かながら、確かな風穴を開くことになるのではないでしょうか。


「何のために人は生きるのか」式の自問自答を我々若造の一部はしがちです。しかし、煎じつめて考えればそんなものはないのです。また、先に述べたような価値観なんてものも(それが世間一般に通底しているものか、独自で練り上げたものかは関係なく)その立脚する基盤、根拠は非常にあやふやなものです。ですが、それでも大抵の人は、生きる意味とか、独自の価値観とか、夢とか、目標とか、そういうものにすがらなくては生きていけない。メリハリを持って生きるためには、そういうものをどうしても設定してしまうのが、私たち現代人なのだと思います。昔、私が大学1年の時、「夢を持つことが強迫観念になっている気がする」と言った先輩がいて、その時のことは非常に鮮明に覚えていますが、そういうものがあって然るべきだという圧力も一方ではあるのも事実です(それは多分、社会からという面と、自分を自分で追い詰めているという面の両方があります)だから、今の時代は世知辛いのだ、とも言えるでしょうか。


そんな中で、phaさんや勝山さんの生き方は、「田斉くん、そんな小難しいこと考えてないで、片ひじ張らずに楽に生きようよ」と語りかけてくるかのような、ある種颯爽としたものがあります。思うに、社会の一番の状態というのは、何も事が荒立たず、皆で心安らかに平穏に生きられる環境があるということに尽きると思います。そこに物質的な豊かさやいわゆる生き甲斐となるような仕事が加わってくれば、尚言うことがありませんが、一番先に来るのはやはり「ただ平穏無事に生きられる環境がある」ということでしょう。

最近、グローバル競争を煽る声がやたら盛んなように思いますが、それとて、なぜそんな競争をするのかといえば、そこから金を稼いで、一部は自身の家族のために、一部は社会全体の幸福のために税金として、というように「生活」のために競争をするという順序に本来はなるのだと思います。

ところが、今は、競争競争、グローバル化グローバル化の声がやたらけたたましく、肝心の「生活」の存立が危ぶまれるほどに激化している感がある。唐突にグローバル競争の話を持ち出しましたが、これは一例で、このように本末転倒な事態は日本で、いや世界のいたるところで噴出している。ニートや引きこもりの哲学(哲学とまでいうのは大袈裟かもしれませんが)はこのおかしな現状に一石を投じるものとなると思います。進歩や夢をやたらと尊重してきた私たちにとって「ただ生きているというだけでもいいんだ」ということを肯定することはある意味とても勇気がいることですが、これから成熟した社会を築いていく上では極めて大切なことのように思います。

いや、「むしろただ生きていられるということが大事なんだ」というぐらいな考え方でもいいかもしれません(そこまでいくと、再びそれが自分の拠るべき独自の価値観ともなってきますが笑)。…まぁ、いずれにせよ、これからどんな生き方を選択するにしても、こういう人たちがいる、こういう生き方があるということはぜひ多くの人に知っておいてほしいなと、強く感じました。


ただ、多分、この境地に至るまでには(あくまで類推ですが)それなりに鬱々とした期間をお2人とも過ごされたことでしょう。ある種の実践も必要だったでしょう。また、こういう人たちの考えの価値を理解して、納得して、自分の血肉にするには、結局一度は悩んでみる他ないのでしょう(というより、今の世の中に全くもって疑問を持ったことのないという人には、ある意味、全くもって無価値な考え方かも分かりません)。ただし、phaさんや勝山さんの考えが本やブログ等の形でおおっぴらにされ、多数の読者を得ていくということは、今悩む人に安堵と極限まで追い込まれた際の逃げ道を与え、これから悩む人の、その苦悶の時間をより少なくすることに繋がっていくのではないでしょうか。そこから、実際に新たな生き方の萌芽が生まれてくるということもあるかもしれません。


ご両人とも、熊野川町、共育学舎という場所にはなかなか強烈な印象を持たれたようで、phaさんはお帰りになった後、

『田舎はオープンワールドRPGみたいだった』http://d.hatena.ne.jp/pha/20121127/1354011976

という試験的段階的に田舎生活にもシフトすることを示唆する衝撃的な記事を書き、
勝山さんに関しても自身のblog『鳴かず飛ばず働かず』で引きこもり村、引きこもりスラムの創設の可能性についてかなり熱っぽく言及していますhttp://ponchi-blog.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/1-8e4d.html(<その1>と書いてある辺りまだまだ続きがありそうです)

実際にそういう動きが起こる…かも!?今後の展開が非常に楽しみです。

…今月はこんなところでしょうか。それではまた来月末にお会いしましょう。

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