2013年1月31日木曜日

1月分活動報告



あけましておめでとうございます。正月は結局、当初の予定よりやや日にちが延びて、6日の朝まで実家に滞在してました。専ら帰省期間は家でゆったりしたり、高校・大学の同期と飲み食いしておりました。おかげで英気は十分に養えたかと思います。三が日には親戚の面々が一堂に会す機会があり、内心何を言われるかビクビクしていたのですが、特に事が荒立つことなく(むしろ穏便、順風に)済んでホッとしました。ただ、あと1年間休学したい、卒業後は新宮に住みたいという明確な意思表示はその場では出来ず(正月くらい平穏に過ごしたかったので…)一波乱、二波乱この先に待っていそうです。いやはや…。
7日の夜、新宮に戻ってきてからは、2週間弱ほど、しみーさんの家に滞在させてもらいました。市街の中高生へ翔学米のコンテスト企画諸々を告知するための下準備と実際の告知のためです。


ただただ自省するしかないのですが、期限付きの事業+他人との協力をある程度仰ぐ必要が出てくる事業では、やはりある程度計画的に具体的な日程を考えて行動することは必要不可欠なことだと痛感しました。市内の中高生に向けて配るビラや街頭告知用のポスターは新宮に舞い戻った時点では完成していませんでした。風呂敷残業()で帰省中に仕上げてくる気満々だったのですが、しみーさん邸の共用PCにしか入っていないフォントをイラストレーターで使ってしまっていたりして、結局あまり進めることはできず。新宮に戻っての最初の数日間はずっとその完成作業に付きっきりでした。慣れた人なら半日足らずで終わらせてしまうような作業でも、Adobeのイラレを今まで全く使ったことのない、正真正銘のずぶの素人ではなかなかてこずるものです。手に負いかねる部分もやはり出てきます。まだ、その時は大阪に帰省中で、ゆったりしていたかったであろうしみーさんにはなかなか煩わしかったでしょうが、ちょくちょく質問やお願いを繰り返すことになってしまいました。そんなこんなで、チラシを配り始められたのは9日、ポスターの掲示開始は15日にそれぞれなりはしましたが、おかげさまで出来栄えとしてはそこまで遜色のないものを作り上げることができたのではないかな、と思います。


ただ、単に出来ただけでは何にもならず、チラシもポスターも実際に人に配ったり、人目の付くところに置いてもらうことで初めて価値が生まれてきます。今までアルバイトは色々と経験して来ましたが、その中でも街頭のビラ配りは最も不向きだと感じたものの一つ。もっと言ってしまえば、やってて一番なぁなぁ、嫌々になったものの一つでした(苦笑)。僕の容貌からして、不審者に見間違われるんじゃないかという心配もある(苦笑)。そもそも、新宮の子らは、チラシを配られるという経験に慣れてないだろうし…。…しかし、まぁこの期に及んで四の五の言ってはいられません。毎朝毎夕、校門前や駅前など学生の往来が盛んなところにたってビラ配りを続けていました。


配布率自体は思ったよりも良好で、通りかかった大体の生徒さんに受け取ってもらえました(8時を過ぎると皆ドバァっと一気に登校してくるので、その人数の多さに対して渡し切れないというケースは多々ありました)。反射的にではあるのでしょうが、少なからぬ子が「ありがとうございます」なんて言ってくれるので、こちらとしては面食らった感すらあります。ポスターにしてみても、ダメ元で聞いてみると、案外貼ってくれるもので驚きました。特に新宮のおばちゃん連は非常に優しい。それと、迷惑がかかるかもしれないので、どことは言いませんが、大手チェーンの系列でも貼ってくれる所もあったりしました。「民間の方の掲示物を一度貼ってしまうと、どれが貼ってよくて、どれがダメでという線引きが難しくなってしまいまして…。学校関係、行政関係しか基本的にはお引き受けできないんです」というのが断りの常套文句です。まぁ理屈は通ってますし、こちらもダメ元で伺ってはいるので、断られても別に何とも思わないのですが、やはり貼ってもらえると嬉しいもの。多少公共性のある取組みということもあるのでしょうが、地方ならではの個人裁量、判断の緩さというのも些か関係してくるんだろうなぁと思ったりもしました。


ただし、繰り返しにはなりますが、撒けた数は大して問題ではなく、潜在的に海外に興味を持っている子ども達にどれだけ届けられているかが問題になります。

2週間ほどの市街での活動で、チラシは一応各校一定数配れ、ポスターも要所要所に貼らせてもらえたつもりではいますが、今のところ特に目立った反応はありません。「渡航計画を各自で考えて、それを提出してください」という形式のものであるので、撒いて即応募が来るという性質のものではないと分かってはいるのですが、それでもやはりちょっと不安なところはあります。どれだけの数の、どんな内容の応募を、どんな子がしてくるのか…。向こう12か月は不安と期待半々で待つことになるでしょうが、焦らず待ちたいところではあります。


熊野新聞をはじめとした地元紙の皆さんにはちょくちょく活動を取り上げていただいてるとはいえ、まともな感性の持ち主なら、ポッと出の余所者が「海外往復渡航費を全額援助」などと言っていたら、まずは怪しむのがまぁ当然のところなのではないかなぁと思います。特に、こういう突飛な出来ごとに慣れてない人は尚更なのではないか、と。多分先に述べた通学路でのチラシ配りにしても、僕のようなパッとしない、ずぼらな格好の人間が配っていたら(極力気は回してはいますが)マイナス要素こそあれ、それがプラスに働くことはまずないでしょう(苦笑)


まぁ、ちょっと-思考で考えすぎかもしれません。直接的にも間接的にも市内での評判は聞いたことがないので、杞憂に過ぎぬことを祈りますが、学生や保護者、あるいは教員の方に数人知り合いがいれば、もっとすんなり浸透させる手立てがあるろうにな、と思わざるをえません。
最初の数年度、この初年度や学生時代ぐらいは費用・時間を度外視して、企画・宣伝・広報に尽力できるでしょうが、実際に移り住んでからは、今のように何から何までガッツリ手間をかけることはなかなか難しくなるでしょう。「翔学米」は大掛かりに組織化せずとも、一個人が出来る範囲で誰もが無理せず取り組める企画として創りあげました。

米をある程度余剰に生産できる農家が1人や2人いて、購入者がいれば一応の形にはなります。包装・発送についてもまだ節約、手間削減の余地はありますし、広報にしてみても金をかけられなければかけられないでやる道は十分にある。もし、不作の場合、あるいは米の収量は十分にあっても売上が十分でなかった場合、また翔学米外の事情で恐らくその年は余裕がないという場合…そういう年は企画を実施できないというケースが仮に出てこなくともよいと思っています。


企画維持すること自体が目的化してしまったり、規模を拡大しすぎて外部に依存しなくては立ち行かなくなる状況になることは絶対に避けたいです。

しかしながら、「独力でやっていける体制を整えておくこと」は極めて大事ですが、それは「独力でやらねばならない」ということを必ずしも意味しません。むしろ、企画をより充実した形で運営していくためには、人の力を借りられる部分に関しては大いにお借りしたいと考えています。
数年間継続して企画に取組んでいく中で「あぁ翔学米か、今年もやってんのね」と思ってもらえるだけの認知度と信頼感を築いていって、その中で協力してくれる学生や保護者、教職員の方々も現れてくれたらな、と、今夢想しています。5年、10年とかかることでしょうが、そんな状態になったときには、翔学米に限らず、皆さんがもっと有意で多彩な活動を市内で展開できるようになっていることでしょう。
そうそう。活動中、お会いした某塾の先生に、大学の受験説明会をしたいから喋ってほしい。また、東京に戻った後、現役大学生として塾報にコラムを書いてほしいというような提案を受けたことがありました。それを実際にお引きするかどうかはさておいて、今までになかった視点で「ハッ」とさせられる思いがしました。もちろん特定の塾だけ、特定の塾の生徒さんだけと付き合いを持つということになってしまってはつまりませんが、アプローチ方法はもっと柔軟に考えなければなりませんね。

そんなこんなで敷屋に戻ってこれたのは1月の第4週のことでした。その時期に、2週間ほどの期間での滞在希望者がいたのですが、タイミングが悪く、その方以外、皆、敷屋から出払ってしまうという事態になってしまいました。「事態が事態でもあるし、一度戻るか」ということでようやく帰ってきたわけです。

今回の訪問者は京都のハードコア系バンドのベースマンさんで、phaさんのtwitterを見たことがきっかけで来られたとのこと。僕はその手の音楽には疎いのですが、バンド名を聞いて検索をかけたところwikiにも載っていたので、その道では有名なバンドなのではないかと思います。本当にいろんな方がいらっしゃいます。

本来、客人のお世話のために戻ってきたはずなのですが、料理の上手い彼に逆にお世話されっぱなしです。簡単なお料理もいくつか教えてもらいました。ホストとゲストの立場が完全に逆転していて申し訳ない気もしますが、すっかり甘えてしまっています(苦笑)

…今月はこんなところでしょうか。それではまた来月にお会いしましょう。