2012年6月30日土曜日

6月分活動報告

 菜種、小麦、じゃがいもとたて続きに人手の要る収穫が続き、あとは田んぼ、田んぼ、田んぼというのが6月だったように思います。ということで、今月は前々から書きたくて書きたくて仕方がなかった田んぼでの学びについて書きたい。 最近は晴れの日であれば、田んぼに入らない日はないといっていいほど田んぼに入り浸っています。「NO 田んぼ、NO LIFE」です(笑)。お米を育てるにあたって、最初のころ「マニュアル一辺倒ではなく、自分を通してお米のことを考えること。そうすればやるべきことは田んぼが独りでに教えてくれる」と教わりました。この話を三枝さんにしていただいたのは、箱苗の朝露を人間の寝汗に例えられてのことだったと記憶しています。


  自分を通してお米のことを見つめることで得られることは何もお米のことだけではありません。お米は自身の鏡にもなります。育苗段階の苗で、化学肥料を使ったものと使っていないものとでは一見すると使ったもののほうが背丈が高く育ちがよいように見える。しかし、それはあくまでちょっと見ただけでの判断です。よくよく見てみると後者の方が葉がより多く別れていて、根もしっかり張っている。「人間もこれと同じで、どんどん肥料を詰め込んで成長を急かし、見栄えだけは良い人間を育てているのが今の教育だ。俺は後者のような人間を育てたい」、と三枝さんはおっしゃっていました。僕はまだたった20年しか生きてませんから、このことについて確信を得るにはもう少し時間が必要なように思う。ただ、初めてこの話を聞いた時のすっと腑に落ちた感覚は今でも覚えています。こうして文章を書きながら田んぼを眺めてみても、三枝さんの田んぼの深緑の深さは際立って見える。丈に関しても、当初は他のおじいちゃんの田と比べると目に見えて小さかったのですが、今では遜色がほとんどないくらいに成長しました。


   「自分を通してお米を見る」ということを自分がどれだけ実践できているかと問われると何とも心許ないものがあるのですが、少なくとも我が身より田んぼ、という状態にはなっています。今月、6月早々に台風が直撃し、西敷屋中が騒然となりました。避難することになったら、まぁその時はその時だなという程度に構えていましたが、田んぼに関してだけは本当に気がかりで、川の氾濫に巻き込まれてしまわないかどうか一日中ずっとやきもきしていました。最近、地味に響くようになった腰痛も自分の田んぼに入っているときは不思議なことにそれほど気になりません。


  また、一つ一つの作業に一番集中できているのは間違いなく自分の田んぼにいる時です。あることをキッカケに「一つの作業をしているときは、その作業のみに集中する」ということを出来るだけ念頭に置いて日々取組むようにしています。至極もっともで、当り前のことのように皆さんは聞こえるかもしれません。事実、僕も最初はそう思っていました。でも、実際に取組んでみると、コレ、なかなか難儀なことなのです。


  座禅というものがありますよね。アレはやっている行為そのものだけに焦点を当てれば、自身の丹田に、あるいは自身の呼吸にのみ意識を集中させるという極めて単純な行為です(。しかし、実際にやってみれば分かるのですが、これがまた難しい。10秒もしないぐらいの間隔で、雑多な考え(のカケラ)が浮かんでは消え、浮かんでは消えを幾度となく繰り返す。自分でも呆れてしまうくらいです。 居直るわけではないですが、単に息をするだけのことにも専念できないのですから、他の作業のこととなると尚更難しいのは当然かもしれない。私は元々怠惰な男です。何かの作業が始まると、脳内に音楽が再生される、あるいは実際に歌をくちずさんでしまうということは日常茶飯事でした。今でこそ、そんな舐めた真似はしていませんが、それでも、頭がいつの間にか作業外のことに飛んでは、ハッとして引き戻し、飛んで行っては引き戻しの繰り返しです。ただ、それが自分の田んぼのこととなると、わりかし集中して出来る不思議があります。


    一つの作業に-完璧ではないにせよ-集中することができると、「なぜ、その作業が必要なのか」という本質的な部分を問うことができるようになる…気がします。田車という手押しの除草機があります。先月、今月と三枝さんの田んぼも併せてカウントしたら、何回やったかちょっと分からなくなるくらいこの田車を頻繁に使いました。当初は勝手が分からず、膝の屈伸と併せて押し引きをすると余計な力を使わずに済むとか、そういう発見をして、早く押せるようになる度に一々喜んでいました。しかし、一度立ち止まって考えてみると、田車を押すのは別に早く終わらせることが目的ではないのです(もちろん、早く押せるに越したことはないのですが…)。進む幅が大きいと、歯車の掻き乱しがどうしても粗くなる。だから、自分自身が進む幅は基本的には短い方がいい。また「引いて、押して、一歩踏み出す、引いて、押して、一歩踏み出す…」という基本動作を教わって、最初はその通りにやっていたのですが、雑草が多めに繁殖している箇所では「引いて、押して、引いて、押して、引いて、押して、引いて、押して、一歩踏み出す」ぐらいのことをしてもよいわけです。植えてから2週間後の第1回とすっかり成長した後の3回目、4回目とでも当然要領は異なる。稲周りをなるべく残らず取り除くにはどうすればいいか、稲の根を切らないためにどういう工夫ができるか…考えるべきことは本当に多いです。これもまた私が来た当初に言われたことなのですが、ここでの学びは一つの問いに一つの答え、与えられた問いにただ答えていればいいという学校教育とは本質的に異なります。最初はただ何となくの頭だけの理解でしたが、今ではそれが痛いほどによく分かります。

    私の師匠(4月分の報告書でお話したジャーナリストの先生のことです)には講演やコラムの執筆でよく用いる受け売りのテーマというのがいくつかあるのですが、そのうちの一つに「InformationとIntelligence」というものがあります。この2つの言葉、両方とも「情報」と訳しうる言葉です。しかし、前者は量を、後者は質を司っています。ご本人の弁を借りて比喩的に説明すると「収穫した葡萄を篭に山積みしているのがインフォメーションである。その中から粒を選んでワインを醸造して、さらにその中から極上のものを選んで蒸留器にかけて、一滴ずつエッセンスを取り出したのがブランディーであって、それがインテリジェンスである」…ということになる。

   InformationをIntelligenceに高めるためのしなやかな頭を育てる、というのがその先生のゼミの大きな主眼の一つでした。当初は「何とも大仰な…」と苦笑いしていたのですが、受講を続けるうちに次第に、先生のゼミに関わらず、大学教育(とりわけ文系に関して)の本質は遍くIntelligence教育にあるんじゃないかな、と思うようになりました。大学に2年間通ってみて分かった事ですが、学部のたった4年間で1つの専門を究める、知識をつけるということはかなり難しいことです。それよりかは、修士・博士の前段階として、一つの学問の方法論を頭に馴染ませるということに学士の重点は置かれているといってよいと思う。歴史学なら歴史学、経済学なら経済学の学問的手法でInformationの集め方、それを整理してIntelligenceへの昇華させていく方法を修得する…といった具合にです。いわゆる一般企業の総合職も本来ならこうした能力を備えた人材を求めているのでしょう。


  この「InformationとIntelligence」について私が一つ見落としていた点がありまず。それは、何もこの話は「論理」の領域に限った話ではなく、「身体」の領域においても当てはまる話であるということです(若干ニュアンスが違いますが「論理」、「身体」をそれぞれ「左脳」、「右脳」と置き換えてもらったほうが、分かりやすいかもしれません)。


   先の田車の例はIntelligenceなどというと何とも大袈裟な感があるけれども、「場面場面に散りばめられた情報を即時に判断して、最適な行動を割り出す」という行為は(こちらの方が瞬発的、瞬時の判断が求められるという違いはありますが)先の話に確実に通ずるものがあります。もしかしたら、Intelligenceというよりは勘という呼び名の方がしっくりくるかも分かりません。先月は、「身体脳力」などという何とも不細工な造語を作りましたが、これは畢竟、頭がまだ整理できていない状況下で今述べてきたようなことを記しておきたかったからです。


  論理分野でのIntelligenceでしたら、まだまだ未熟とはいえ20年間それなりの研鑽は積んできました。しかし、身体の方は全く未開発です。僕としてはこの両方のIntelligenceを身につけて初めて一人前の人間になれると見做したい。先月述べたことの焼き直しになりますが、こちらの生活では後者を鍛えるチャンスが毎日のようにあります。その折々の機会を無為にこなしてしまわぬように気を引き締め直したいところ。特にこれから来る夏場は要注意ですね.

  もう7月…、滞在期間の既に4分の1が経とうとしています。月並みのコメントですけど、月日って本当にあっという間だな、とつくづく感じます。ちょっぴり焦っている今日この頃です。


  …今月はこんなところでしょうか。それではまた来月にお会いしましょう。