2012年12月31日月曜日

12月分活動報告

 すっかり冬になり、布団も3枚、4枚と重ねねば、なかなか寝つけなくなるくらい冷え込んできました。これでも、まだまだ寒くなるらしい。私は極度の寒がりなのですが、まだ寒さの底が来ないうちに着込んでいては真冬のシーズンに凍死するんじゃないかと思って(防寒具を大して持ち込んでないのです…)昼は上2枚、夜は+ちゃんちゃんこでとりあえずは踏みとどまっています。私がいかにもガタガタガタガタ寒そうにいるもんですから、周りからは「痩せ我慢せずに着ればいいじゃん」とも言われるのですが、12月いっぱいはこのまま頑張りたいと思います(苦笑)


昨月スタートさせた「翔学米」ですが、早々と取らぬ狸の皮算用というか、目論見の甘さが露呈する格好となりました(苦笑)お米の販売、実は告知後1週間や2週間そこらで10袋くらいは即売できるんじゃないかと慢心していたのです。しかしながら12月頭の時点では半分の5袋にも達していませんでした。

そういう訳で販売の伸び悩み+社会人とのつながりの浅さ少なさを痛感した私は、まず単純な思い付きから、自分の母校(早稲田)の同好会組織である稲門会に活動をアピールしに行かせてもらうことにしました。
稲門会というのは、企業名+稲門会、地域名+稲門会、サークル名+稲門会などなど…やたら種類と数だけあることだけは知っていて、その内実については全く知り得ていなかったのですが、和歌山県の稲門会については、定期的に懇親の場を設けたり、県内のOBOGが活躍している現場に訪問したりするなど、精力的に活動されているイメージを受けました(失礼ながら、それまではOBのおじいちゃんたちが季節ごとに1回くらい顔見せ程度に開催しているというイメージがありました苦笑)。皆さん、得体のしれない若造の話にも関わらずよくよく耳を傾けてくれました。会の解散後、OG1人には和歌山市内の観光名所を地元のおばさん方と一緒にドライブでざーっと巡っていただくという親切もしていただきました。


また、その稲門会での出会いをきっかけに三重県尾鷲市で行われる紀州熊野応援団というNPOの全国イベントにも参加する運びにもなりました。紀州熊野地域に暮らす人々と全国各地に暮らす人々との懸け橋となり、紀州熊野地域の潜在的資源と全国各地の潜在的需要とを上手くマッチングさせるための活動を展開している団体です。稲門会には5日に出向いたのですが、その3日後に、偶然このイベントが控えていたのです。


 内容としては、前半にメインゲストの増田寛也元総務大臣が基調講演として「地域が今輝くために」と題して、今後の地域づくりのための方向性を示唆する話を1時間。後半は南紀で活躍する事業家の皆さんの活動紹介とそれに対する増田さんの寸評が行われたというような具合でした。司会の方と偶然、お昼をご一緒する機会があったことが伏線となり、後半の質疑応答の時間では「新宮での活動を紹介してください」と私に話がいきなり振られるというハプニング()もありました。200名超の人数がいる会場だったので、緊張しすぎて(私は極度のアガリ症です)しどろもどろにならないように必死で、何を話したかイマイチよく覚えていないのですが、後々聞いたところによれば、内容の質はともかく気概は何とか示せていたようでよかったと思います。

 その後は、会場を移動して、ビュッフェ形式でご馳走を摘まみながら参加者の皆さんと懇談。翌日は同市の早田(「はいだ」と読みます)という漁港で朝一、獲れたての海の幸を昼ご飯がいらなくなるくらい、たらふくいただいた後(下ろしたてのハガツオの刺身は今まで食べてきたものの中でも10指に入るくらい美味しかったです)、早田の区長さんに区の概要と過疎・少子高齢化に対する活動事例をご紹介いただいたのち、若干の意見交換をして、敷屋への帰路につきました。


さてさて、この2つの会合の訪問を通して多くの出会いがあったわけですが、結果、どのようなことが今後生まれてくるかは正直分かりません…(苦笑)一期一会の機会をどれだけ生かしきれたかも分かりません。和歌山市行きの時は会合の後、市内の名所をドライブして巡っていただいたり、尾鷲の方も尾鷲の方で、見方によっては豪華グルメツアー的な様相を呈していたわけで、お前は道楽しに行っとったんかという誹りをある意味受けかねない面はあります…(苦笑)


 ただ一つ直感的に思ったこと。貴重な出会いも多々ありましたし(特に大学のOBOGの方々)、ここから繋がっていくご縁ももちろんあるだろうとは思ったのですが、ただ同時に、多分、人との生きた繋がりって一緒に活動したり知恵を絞ったりするなかで基本的には築かれていくものなんだろうな、と。色々と考えさせられた数日間の飛び込み訪問()でした。


12月といえば真っ先に連想するのはクリスマスですが、クリスマスの3日前にはさやさんの誕生日会がありました。いつもこの手のイベントを統括しているのが彼女であることのみならず、共育学舎人は平素並々ならぬお世話をさやさんから受けているので、皆いつも以上に張り切っていました。男子勢(なおきさんと僕)の役割は料理全般と会場の装飾と、イベントの大部分を任されることになりました。

コンセプト、理想としては「いつもお世話になっている男子勢がこの日一日だけでも会を取り纏めてささやかながら恩返しをする」ということだったのだと思いますが、当日まで、というか当日の予定開催時間をオーバーするまで、てんやわんやでした。かなさん(※夏に中期滞在していた関大を休学中の女性です。11月からまた来てくれていました)がいなければ、どうなっていたことかと思います。そんなこんなで実際の実働率は多分「かなさん4.5:なおきさん4:たさい1.5」くらいで、かつ玄ちゃんの暴走()で式次第に一部狂いが生じもしたのですが、本人には何とか喜んでもらえたようでよかったです。


クリスマス当日は当日で、住人4人でケーキコンペを行うという半ば僕を吊るしあげるために企画されたかのようなイベントもありました(苦笑)24日にまず2人、25日に後の2人というように2日に分けて行われたのですが初日の2人の出来が外装・味共に素晴らしかったので余計プレッシャーがかかりました。あまりの出来レース感に少し憤慨、発奮して、シュトーレンといういかにも高度そうなケーキにチャレンジしようとして大穴を狙おうとしたのですが、全力で制止され、諌められました。しょげました。


結局、21日の誕生日会と同じ製法でケーキを作ることにしたのですが、全部が全部同じではあまりにも癪なのでカスタードクリームを中に仕込んでみることにしました。結果、焼きあがったと思ったケーキの中からカスタードクリームがメルトダウンしてきて、表生地が破られる一歩手前までになり、惨事になりかけるという事態が途中で発生しました。素人はやはり冒険をせずに地道な下積みを重ねていくのが一番なようです…(昔、小学校の担任に「工作」の時間の作品を評して「お前は、アイデアは中々見るもんがあるけど、それを実現する細やかさが如何せん足りんな(苦笑)」と言われたことをふと思い出しました)


とはいえ、この私が一応紛いなりにもケーキなんてもんを作れるようになったことは、成長といえば成長なのでしょうか。味自体は一応差し支えなく「食べれる」レベルで、同日の白浜の忘年会で無事皆さんにお召し上がりいただけました。


日にちは前後しますが、今月頭に就活が始まったようです。私は解禁の日は田んぼの肥になる藁をひたすら裁断するという、どうということもない1日を過ごしていましたが、Twitterの鍵アカウントが増えたり、Facebookで企業ページに「いいね!」を押す友人が、その日を区切りに徐々に増えていって「始まったんだなぁ…」ということをしみじみ感じているところです。私もこのまま普通にいけば、来年同じ立場に立つわけですが、今では、ただでさえガツガツやるつもりのなかったところが、もう全くする気がなくなりました。


就活をはじめ、今の社会は何かがおかしい…。しかし、その思いのあとに「でも…」という二の句を継いでしまっていたのが今までの私でした。それが今は何の抵抗もなく、自然に東京では就活せずに新宮に戻ってきたいなぁと思います。単純に、毎日がカルチャーショックのような生活を送ってきたせいもあろうし、情報の荒波から隔離された環境にあって、結果として世界を傍から落ち着いて見れたということ、自分の頭だけでじっくり物事を考えることができたことなんかも大きいでしょう。休学する以前より、遥かに視野が明瞭になった感がありますし、自分が大切にしたいことも明白になってきた気がします。

 
更に言えば、新宮市には人がいます。これからの時代は自分の身近で出来ることを11人が積み上げていくこと。それも各自が孤立して個々にやるのではなく、誰かと共に協力して積み上げていくことに意味があると私は思います。一人でも頑張れないことはありませんが、一緒に何かをやってくれる手伝ってくれる仲間がいたほうがやれることは大きいし、何よりその方が絶対に楽しいです。その基盤が新宮にはあるし、これから益々拡がっていくでしょう。これも大きな理由の一つであると思います(畢竟、縁ということに尽きるでしょうか)


しかしながら、就活に対する態度はだいぶ定まったものの、「じゃあ卒業して新宮で何をやるのさ」と聞かれると正直言って今の段階ではその答えには窮します。でも、それでもいいと思っています。最近、そう思えるようになりました。今までの自分は狂おしいぐらいに世間体を気にしていた。新宮で百姓になるより、NHKでディレクターとか、朝日で記者をやっていた方が多分よっぽど余所ウケがいいでしょう(親戚なんかは100%そちらの方が喜びます)。見栄からか、保身からか。就活して大企業(私の場合はマスコミ)に入る生き方に疑問を持つ一方で、その「余所ウケ」によっかかりたい自分がいたのもまた事実なのです。

…そんな状態から、以前と比べれば、今はだいぶ距離を置けているように思います。今の状態は確かに格好はつかないですが、それでも気が済むまで考えたい。自分が納得した答えが出せるまで虚勢を張るのはやめようと思います。


もしかしたら市役所や地方新聞のようなところにお世話になるかも分かりません。ただ、現時点では農的な営みは大事にしたいと、割とはっきり思っています。それは農業で食いぶち(=現金収入)を得ていくという意味ではなく、自給的な農業、食べることずばりそのものである農業を大事にして暮らしていきたいという意味で、です。農業を営み、生きる基盤を固めながら暮らしていく過程で、やりたいことが湧いた時点から、ナリワイ的なビジネスや社会貢献に取組めていけたら、とおぼろげながらに考えています。これからまだ右往左往するかも分かりませんが、見守ってやっていただければ幸いです。


 28日の夕方から、帰郷の途に着きました。夜に岐阜の大垣まで行って、「ムーンライトながら」という夜行電車に揺られて帰りました。…千葉に「帰郷」というのも何だか滑稽な感じがしますが、「里帰り」が東京、大阪都市近郊になる人、そういう人が今後は増えていくのでしょうか。少なくとも、都市と田舎の両方に拠点があるのは絶対に悪いことではありませんよね。


実は年末、帰る直前から体調が下降線です。身体は丈夫な方だと自負しているのですが、体調を崩すとしたらいつも年末、それも冬休みに入ってからなのです(気が緩むんでしょうか)。まぁせっかく実家に帰ってきてるんでしっかり養生してから新宮に戻ってきたいと思います。


…今月はこんなところでしょうか。それではまた来月末にお会いしましょう。


来年もよい年になりますように…!

2012年11月30日金曜日

11月分報告書


 今月初めに、2番穂を待っていた部分の稲を刈り終え、全ての稲刈りが終了しました。その待っていた2番穂に関しても全部が全部上手く実っていたわけではないのですが(むしろ不出来なものの方が多かったです)、わがままを言って、刈った分全てを脱穀していただく運びとなりました。付き合って下さった共育学舎の皆さんに感謝します。


さて、今年半年の大部分の精力を注ぎ込んで邁進してきた米づくりですが、出来栄えは、と言えば…失敗と言わざるを得ません(苦笑)。「今年はどこも悪かった」というような慰めの言葉を皆さんから頂戴しています。まぁ、雨季が授粉期に重なってしまった等、人為の及ばない天災も確かにあることにはありましたが、水管理がまずかったとか、根を張る時期に(草取り)田んぼに入り過ぎたとか、防げた要因、素人農法でまずかった部分も多分にあるでしょう。ただ、残念だといえば、残念ですが、不作とはいえ無事収穫を終えられたことにはただただ安堵していますし(夏は台風が来るたびにずっとびくびくしていました)、やはり感慨深いものがあります。

学生中に一度作物を紛いなりにも育て上げることを体験できたことは、自分で言うのも何ですが、とても大きなことだったと思います。基本的には人間の手なんて借りずともすくすく育つ作物の逞しさを知りました。一方で、そんな中でも人間の手が必要となる局面がいくつかあって、その要所要所の、やり方、タイミングの見極めの難しさもよくよく分かりました(難しさが分かったというだけの話で実際にちゃんとできるようになるのは先の話です)。こう、半年を振り返りながら文章を書いていると、本当に充実した毎日だったなぁと何だかほっこりしてきます。


「兄ちゃんは農家じゃないんだから、失敗も研究、経験ってことでええじゃないか」と集落のおじいちゃんに言ってもらいましたが、正にそうだと思います。仮に田舎に生活の基盤を置いていて、収量が少なかったら生活にモロに響くでしょう。そう考えると、絶対に避けたい失敗を、大学を出てからではなく今出来たことには少なからぬ意味がある、今はそんな風に捉えています(些かポジティブすぎるでしょうか)。違うおばあちゃんには「また、作りゃあえぇ」とも言ってもらいました。

僕もどのタイミングになるかは分かりませんが、必ずまたやりたいと思う。やはり、何だかんだで、たわわに実った稲穂が深々と首を垂れる稲穂は見たい!()そういった、モチベーション上の意味でも、第1回目がこういう結果で却ってよかったのかもしれません()。実際の収量はイマイチでも自分の中では大きな収穫があった米作りでした。という訳で、記念すべき第1回目の米作り、無事終了です。


併せて、温めに温めてきた()「熊野川翔学米」の封を同じく今月初めに、ようやく切ることができました。当初は「地元の若者支援」と「地元農家支援」の2つを軸に制度設計を進めてきましたが、他にも大切にしたいこと、取り組みたいことが後付け的にたくさん出てきました。企画の概要はHPhttp://simy.fem.jp/kumanogawa-shogakumai/sg.htmlを参照していただくこととして、ここではそこに載せ切れていないことを少しだけ書きたいと思います。


企画着想当初は、新宮市の一学年分全員を無償で海外に行かせられたらなぁ…なんてことをおぼろげながらに考えていました。でも、今はそれほど事業規模を大きくしたくない。むしろ大きくし過ぎてはダメなんだろうな、と考えています。まず一つは単純に、規模を大きくし過ぎると、お米を捌くことで手いっぱいになって、元々大切にしたかった所から乖離してしまう気がするからです。


むしろ小さい規模の営みであることに積極的な意義を見出したいとも思っています。何かソーシャルビジネスや社会貢献のために全てを注ぎ込むという人生はそれはそれで素敵なことです。ただ、私は、それを専業にしなくても、自分の生活を崩さない範囲で他のこともやりつつ…というスタイルでも出来ることはある。一握りの天才ではなくて(もちろんそういう人は必要です)、私のような平凡な個人でも、12つと自分の生活の中から出来ることを見つけて仲間と一緒にそれを手掛ければ、小さいながらもそれなりに有為で楽しいことができる、ということを示したい。

そんな動きがいくつもいくつも積み重なって、各地に拡がっていて、じんわりじんわりと社会が動いていく。そういう潮流が起こったら、面白いだろうなぁと思うのです(柴田さんも「11プロジェクト」の時代になったらいいよね、といったようなことをおっしゃっていました)。…まぁ、まだ実際に何もなしえていないのにこんなこと言うのはなんですけどね(苦笑)


対外的なPRとしては、柴田さんとしみーさんの悪ノリに背中を押される形で、2日の真夜中に自分のFacebookTwitterでは告知をしたことに加え、中日新聞さんの地方版とそれをチェックしてくれた日本農業新聞さんには取組みを取り上げてもらえることになりました(全国紙デビュー!笑)。今後の拡がりに期待したいところです。自分も中高生向けの企画の本格的な立案等できる限りの努力はしたいと思っています。


今月はお客さんとしてニートの達人と非常にユニークな方々が続けざまにいらっしゃいました。1人はphaさんという方で、もう1人は勝山実さんという方です。片や、日本で一番有名なニートと目され、片や引きこもり菩薩の異名を持っているという異色のコンビです()

 Phaさんは並河さんが中心となって行っている「就活にモヤッとする人へ」通称「しゅ~もや」なるイベント@京大熊野寮http://syumoya.blogspot.jp/2012_11_19_archive.htmlにゲストとして呼ばれ、そのまま並河さんに拉致()される形で敷屋までお越しになり、勝山さんは、和歌山県田辺市の講演のついでに、上富田在住で共育学舎と交流のある竹中さんという方に誘われてこちらまで遊びに来て下さいました。

 どちらのblogもお越しになるまではチェックしたことがなかったし、どちらのご著書(phaさんは『ニートの歩き方』、勝山さんは『安心引きこもりライフ』、『引きこもりカレンダー』という著作をそれぞれ上梓されています)も未だに読んでいないのですが、お2人との出会いは私にとってかなりショッキングなことでした。ナリワイの伊藤さんとはまた別の形で(といっても共通する部分も多いですが)、これからの生き方を考える上での示唆をいただいたからです。


従来自明のものとされてきた価値観やシステム、成功ルートであったりに依存して生きることの危うさ、おかしさは、今、多分少なからぬ人が感じとっているのだろうと思います。ただ、そこでの難しさは、「人の言うこと、世間の常識に頼らず(というよりかは頼れなくなり)、それに代わる価値観や、その価値観に基づく生き方を自ら創りあげていかねばならない時代になった」ということです。上手いこと自分なりの軸を築くことに成功し、それを活力の源としている人が今一般に成功者として注目されている人たちなのでしょう。それは自分には無理だと諦念して、「危なっかしくはあるけど何だかんだでまだしばらくは保つであろう」既存のレールに再び乗っかっていく人もいることでしょう。この自分の内面の軸を築く課程を、問い抜くにしろ、割り切って放棄するにしろ、そこへの向きあい方が中途半端なままでは今の時代はレールに乗るも地獄、乗らぬも地獄ということになるのだろうな、と思います。


そんな時代の中で、今、phaさんや勝山さん、あるいは三枝さんの「ただ生きている、それだけでもいいじゃないか」というニート・引きこもりの思想、生き方が世に問われるようになったことは非常に意味のあることなのだと感じます(特に先述のphaさんの『ニートの歩き方』はかなりのベストセラーらしい)。閉塞しきった日本の社会に僅かながら、確かな風穴を開くことになるのではないでしょうか。


「何のために人は生きるのか」式の自問自答を我々若造の一部はしがちです。しかし、煎じつめて考えればそんなものはないのです。また、先に述べたような価値観なんてものも(それが世間一般に通底しているものか、独自で練り上げたものかは関係なく)その立脚する基盤、根拠は非常にあやふやなものです。ですが、それでも大抵の人は、生きる意味とか、独自の価値観とか、夢とか、目標とか、そういうものにすがらなくては生きていけない。メリハリを持って生きるためには、そういうものをどうしても設定してしまうのが、私たち現代人なのだと思います。昔、私が大学1年の時、「夢を持つことが強迫観念になっている気がする」と言った先輩がいて、その時のことは非常に鮮明に覚えていますが、そういうものがあって然るべきだという圧力も一方ではあるのも事実です(それは多分、社会からという面と、自分を自分で追い詰めているという面の両方があります)だから、今の時代は世知辛いのだ、とも言えるでしょうか。


そんな中で、phaさんや勝山さんの生き方は、「田斉くん、そんな小難しいこと考えてないで、片ひじ張らずに楽に生きようよ」と語りかけてくるかのような、ある種颯爽としたものがあります。思うに、社会の一番の状態というのは、何も事が荒立たず、皆で心安らかに平穏に生きられる環境があるということに尽きると思います。そこに物質的な豊かさやいわゆる生き甲斐となるような仕事が加わってくれば、尚言うことがありませんが、一番先に来るのはやはり「ただ平穏無事に生きられる環境がある」ということでしょう。

最近、グローバル競争を煽る声がやたら盛んなように思いますが、それとて、なぜそんな競争をするのかといえば、そこから金を稼いで、一部は自身の家族のために、一部は社会全体の幸福のために税金として、というように「生活」のために競争をするという順序に本来はなるのだと思います。

ところが、今は、競争競争、グローバル化グローバル化の声がやたらけたたましく、肝心の「生活」の存立が危ぶまれるほどに激化している感がある。唐突にグローバル競争の話を持ち出しましたが、これは一例で、このように本末転倒な事態は日本で、いや世界のいたるところで噴出している。ニートや引きこもりの哲学(哲学とまでいうのは大袈裟かもしれませんが)はこのおかしな現状に一石を投じるものとなると思います。進歩や夢をやたらと尊重してきた私たちにとって「ただ生きているというだけでもいいんだ」ということを肯定することはある意味とても勇気がいることですが、これから成熟した社会を築いていく上では極めて大切なことのように思います。

いや、「むしろただ生きていられるということが大事なんだ」というぐらいな考え方でもいいかもしれません(そこまでいくと、再びそれが自分の拠るべき独自の価値観ともなってきますが笑)。…まぁ、いずれにせよ、これからどんな生き方を選択するにしても、こういう人たちがいる、こういう生き方があるということはぜひ多くの人に知っておいてほしいなと、強く感じました。


ただ、多分、この境地に至るまでには(あくまで類推ですが)それなりに鬱々とした期間をお2人とも過ごされたことでしょう。ある種の実践も必要だったでしょう。また、こういう人たちの考えの価値を理解して、納得して、自分の血肉にするには、結局一度は悩んでみる他ないのでしょう(というより、今の世の中に全くもって疑問を持ったことのないという人には、ある意味、全くもって無価値な考え方かも分かりません)。ただし、phaさんや勝山さんの考えが本やブログ等の形でおおっぴらにされ、多数の読者を得ていくということは、今悩む人に安堵と極限まで追い込まれた際の逃げ道を与え、これから悩む人の、その苦悶の時間をより少なくすることに繋がっていくのではないでしょうか。そこから、実際に新たな生き方の萌芽が生まれてくるということもあるかもしれません。


ご両人とも、熊野川町、共育学舎という場所にはなかなか強烈な印象を持たれたようで、phaさんはお帰りになった後、

『田舎はオープンワールドRPGみたいだった』http://d.hatena.ne.jp/pha/20121127/1354011976

という試験的段階的に田舎生活にもシフトすることを示唆する衝撃的な記事を書き、
勝山さんに関しても自身のblog『鳴かず飛ばず働かず』で引きこもり村、引きこもりスラムの創設の可能性についてかなり熱っぽく言及していますhttp://ponchi-blog.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/1-8e4d.html(<その1>と書いてある辺りまだまだ続きがありそうです)

実際にそういう動きが起こる…かも!?今後の展開が非常に楽しみです。

…今月はこんなところでしょうか。それではまた来月末にお会いしましょう。

2012年10月31日水曜日

10月分活動報告

 今月はアフリカ太鼓の演奏会から始まりました。開演当初、今回のイベントを企画した方々による余興演奏のようなものがあって、それは正直いって肌に合わなかったのですが(ホイッスルがやたらけたたましく、「サンバかよ、こりゃ…」と思うような勢いで、独り蚊帳の外に置かれているような心持がしました)、中盤、山北紀彦さん、早川千晶さんらの演奏が始まってからは、非常にワクワクした一時を過ごすことが出来ました。  その晩早川さん達と話して(話の内容とは直接関係ないのですが)、「自分の好きな音楽や芸術に親しみ、それにちょっとした報酬が得られるというような生活を送れたら素敵だよなぁ」ということを漠然とながら考えました(誕生日や送別の際に、何か一曲歌うことがここに来てからなぜだか定番化してしまったのも伏線にあるのかな)。


  唐突に響くかもしれませんが、音楽等の芸術活動って、ナリワイと実に親和性の高い活動だと僕は思います。いや、「個人レベルではじめられて、自分の時間と健康をマネーと交換するのではなく、やればやるほど頭と体が鍛えられ、技が身につく仕事」をナリワイと呼び、自分も他人も健康にするような要素があれば尚よし、とするのであれば、芸術活動ほどその定義に適したナリワイはないのではないかと思います。 音楽や画描き一本でこそ、食っていくのは大変でしょう。そうした経済的な事情を背景に、芸術の道を断念した、という人は日本内外を問わずかなりいるのではないかと思います。そうした人に三枝3K(農業)×ナリワイ×芸術活動は新たな生き方を示せるのではないでしょうか(音楽や美術に自分の全神経を没入させられなきゃ嫌だという根っからの芸術家は別として)。ある程度素養がある人であれば、奇抜なアイデアを用いずとも素敵なナリワイを創ることが可能だと思います。


  僕は「耕すシェフ」よりは「耕すオーケストラ」とか「耕すバンド」、「耕す劇団」、「耕すアトリエ」を新宮に導入してほしいし、導入したいと個人的には思います(笑)。…話が逸れました。まぁ、私の戯言はさておき、月の初めから本当に素敵な出会いが出来たと思います。早川さんは自身が活動する「キベラスラム」の子どもたちを来年日本に連れて来た時、ぜひ共育学舎に連れてきたいとおっしゃっていましたが、そういう方面での繋がりも今後楽しみなところです。 アフリカ太鼓の演奏会の直後には、以前パンのワークショップにいらした方で、現在はインドネシアのロンボク島に嫁いで生活を送っている方が旦那さん(インドネシア人)といらして、10月第1週はちょっとした国際週間になりました。


  その後、待ちに待った中野さんの罠講習がありました。半日かけてくくり罠を設置する前の下準備、かけ方、かける際の諸注意などをじっくり中野さんに教えていただきました。で、実際に3か所ほどに罠を仕掛けたのですが、それから2日後だったと思います。すぐに雄鹿がかかりました。物見の柴田さんからは小鹿と聞いていたのですが、実際はそれなりの大きさの鹿で、ちょっとばかし戸惑いました。その後、3人がかりで鹿を仕留めて、前日に中野さんに実演してもらった鹿のさばき方を実演してみたのですが(特に田斉は)如何せん上手くいきませんでした。罠の掛け方にしろ、仕留め方にしろ、獲物のさばき方にしろ、慣れるにはそれなりの場数が必要だろうな、と痛感した次第です。


  また、実際に鹿を殺めてみての感想ですが、槍を突く前よりも突いた後。鹿の目に光がなくなってぐだぁーっとなって、でも温もりはまだ残っているという、そういう姿を改めてまじまじと見つめたときの方が足が竦みました。畜産にしろジビエにしろ、屠殺という行為を通らずして、流通した美味しいお肉をいただける環境は、私のような都会人にとっては非常にありがたいものではありますが、そこには手間以上にもっと重要なものが省かれてしまっているのだな、と思います。


  命を取るその瞬間の精神的な負荷もそうですが(負荷という言い方が適当かどうかは分かりません)、実際に臓器を取り除いて、皮をはいで、肉を卸すという作業も非常に骨が折れるものです。本来は、獣肉をいただくにはこれだけの過程が必要なんだな、とつくづく感じいるものがありました。まぁ、ただ実際問題は、全員が全員、畜産や狩猟の営みに携わる余地はないけれど、それでも、どうしても「肉食べたい…!」と思ってしまうのが、人間の性です。そうして、他人が卸したお肉をいただくからには、相応の代価を払って、産者の影の苦労、獣の命に感謝してそれをいただくというのが筋というものなのでしょう。今までの人間と自然の調和(例えば過大消費の抑制)は、そういう一種の倫理の存在があったからこそ保たれていたという面があると思います(あくまで一面に過ぎないとも思いますが)しかし、ある一線を越えると、どうにもそういう訳にはいかなくなる。


  ただ、儲かるからといって生産者の側から消費者に、都市にアプローチする→需要をたき付け、需要が拡大する→需要に合わせて生産を拡大する、あるいは新規参入する生産者が増える→生産者同士での競争が生まれる。…こうなると、生産者にとっては肉を食べるというのがある意味当然の行為となるし、その選択は、安いか旨いかという皮相的な次元にとどまることになるでしょう。倫理観は価格とともに崩壊することになる。生産者にしてみても需要に合わして生産・販売を推し進めようと思ったら、殺生するたびに後ろめたい気持ちに捉われていてはやってられなくなるし、そもそも一々の手作業では立ち行かなくなるでしょう。


  吉牛や松屋で私たちは今、400円そこらで牛丼をありつける環境にいるわけですが、そこで命をいただいているという自覚を持って食べている人なんてただの1人もいないでしょう。その供されている肉にしても、ぎゅうぎゅうの畜舎に動く余地がないくらい、所せましと押し込められ、高濃度の農薬で栽培した小麦や遺伝子組み換えのデントコーンが混合された飼料をたらふく食らい、文字通り機械的に殺され、卸された…そんな肉である可能性があるわけです。そこに命に対する尊厳が介在する余地なんて微塵もありません。 こんなことをつらつら書き連ねていると、いわゆる菜食主義者や市民活動家でなくても、食欲が失せてきます。


  今年は獣害関連で国レベルで大きな動きが見られた年でした。5月にはジビエ料理の巷への普及を目指した「ジビエ振興協議会」が設立され、6月末にはそれを後押しするかのように「改正鳥獣被害防止特措法」という法律が議員立法で施行されました。ただ、このようにトップダウン式で「ジビエ」推進がなされるのは、個人的にはあまり面白いことではないな、と思います。  「ジビエ」産業は今までニッチで細々とした市場、商売でした。ジビエはニッチで有り続けてこそジビエ、派手に宣伝せずじわりじわりと需要を拡げて行くこと、ニッチにあえて留まり続けることこそがジビエ戦略だ、と個人的には思うのですが、業界の連合組織があるわけでもないし、合法カルテルというものがない日本で、そのような同意形成を目指すのは相当に難しい。結局は、これから自ら積極果敢に潜在的な顧客に売り込んでいく、という所が殆どになるのだろうな、と思います。ただ、その売り込み方はよっぽど考えてやらねばならないでしょう。販売形式にしても、です。(市場規模こそ畜産ほど膨らむ余地はないとはいえ)下手をすれば、先に述べた畜産業の錯踏と同じ道を辿ることになりかねないからです。


  実は今、中野さん、柴田さん、しみーさんが中心になってジビエの商品開発、流通に留まらず、ハンター育成等も盛り込んで地域活性化を行っていこうという「ジビエ本宮」を手掛けようとしています。その「ジビエ本宮」の運営に関しては全く心配していないのですが、問題は他業者です。仮に業者がそれなりの数参入して、更に安易な安売りに走る輩が現れたとして、それに引きずられず、どういった形で差別化を図り、安定した経営を守っていくか、ということを予め考えておくことは極めて重要でしょう。 その差別化の手段、方向性をどうするかは、お3方に任せるとして、僕は事前に考えうる対応策を(まぁ僕なんかが言うまでもないことかも分かりませんが)ちょっとだけ述べておくこととします。


  一つは都市部だけでなく、生産地の足元にある程度、消費の基盤を築いておくことです。

  新宮・本宮はあまりジビエを有難がる人がいないといいます。また、草創期にあってはやはり都市部に売り込むのが一番手っ取り早いという結論になるのかな、と思います。最初はそれでも仕方ない。ただ、長い目で見れば、生産地にある程度消費の基盤を築いていくことは決定的に重要となるでしょう。先に述べた将来的な競争が起こるとしたら、それは絶対に都市部でのパイを巡るものであって、他の生産地、他地方にまでに進出してくるほどの「ジビエメジャー」が登場することはジビエという産業の性質から現れることは想定しにくいと思います。となると、ナリワイとして何とか成り立たせられるくらいの需要を新宮・本宮で開拓しておいて、+αを都会で稼いでくるという有り方が望ましい。都会で売れなくてもまぁいいやというぐらいの体制を築いておくことが望ましいということになります。個人的には(顔の見えないマスに向けて売るというやり方に限っての話ですが)都会に売るのはあくまで地方の消費基盤が整うまでの暫定的なものとし、最終的には地産地消で成り立つくらいに持っていくのが理想だと思っています。漁業とか狩猟のような、収量が不明瞭で且つ生ものを扱う営み(また、命を巡るやりとりが絡む営み)は本来ならば小中規模、兼業、地方志向、生産者ペースでやるべきものであるということは(当たり前のことではありますが)よくよく自覚せねばならないでしょう  


  また、屠殺ワークショップも一つの鍵となりうるのではないでしょうか。

  屠殺ワークショップはPR手段としてある程度有効であったり、それ自体をナリワイに出来たりと期待できること尽くしですが、その中でも理解ある顧客、コアとなる消費者を育てることに繋がりうるということが大切だと思います。 ワークショップ、屠殺体験のようなことは複数の団体が考えるだろうし、既に行っているところもあるかも分かりませんが、どのような狙いで、どのような内容で行うかによって、効果は少なからず変わるものと思われます。


  …ちょっと書き過ぎたかもわかりませんが、狩猟を巡っては色々と考えさせられた月でした。  大工仕事が今月から始まりました。去年の水害で、お亡くなりになられた方の住居を三枝さんが買い取られたのですが、そこがそれなりに改修を要する家であったためです。数か月ぶりに自分の不器用ネタを綴ることとなりますが、私は中学の時分、家庭科同様、技術科に関しても全くもって無能でした。中でも生まれて初めて通知帳にCを付けられたのが技術科であります。まぁ、詰まる所、私に自活する能力は今まで全くもって皆無だった訳で、今回休学しなかったら本当にどうなっていたことかと思います(苦笑)。更に同じ4月に共育学舎に来た-何だかんだでこの報告書では初めての紹介になるでしょうか-元宮大工の直紀さんがいて、この不器っちょにもかなり丁寧に教えてくださるので、凄く助かっています(多分、共育学舎人では一番ビギナーに優しいです)。人の家を手掛けるという緊張感はありますし、親指を玄翁で粉砕するというアクシデントなんかもあったりしました。ただ、そんな中でも、結構楽しんで取組ませていただいています。今まで全く不向きだと思っていて、事実苦手意識もあり、好きでもなかったことを満更でもなく嬉々としてやっているのは何だか不思議な感があります


   それと米づくりが完結したことを受けて、近所の佐々木さんの耕作放棄地(?)を借り受ける形で畑も営み始めました。今までお米に集中しすぎていて、気が回りませんでしたが、「1年の地方生活のサイクル・リズムを体験する」という観点からしたら、ちょっと大変でも4月から自前でお借りして畑もやったほうがよかったかな、と畝作りをしながらちょっと後悔したりもしています(さやさん・ゆきさんのお手伝いでちょっとはカバーできているだろうということで、今はまぁいいかな、と思ってはいますが)。 今から育てるのは、ホウレンソウ、なばな、しろ菜と、コウサイタイという中国の野菜です。ホウレンソウ、しろ菜は大好物の野菜なので、これらが僕にとって初めて栽培する野菜になったのは非常にうれしいことです。また、こうした葉茎類は初心者にとって最も取り組みやすい(つまり簡単な)野菜であるということなので、そういう面でもよかったかなぁと思います。月並みなコメントですが、収穫が楽しみです。  …今月はこんなところでしょうか。それではまた来月末にお会いしましょう。

2012年9月30日日曜日

9月分活動報告

 まず、先月触れた狩猟免許の件について。8月に試験を受け、今月初めに「狩猟免許(わな)の取得」をめでたく取得することが出来ました。「なんで!?」と思われる方もいるかもしれません。何てことはありません。動機の大半は「大学生で猟師って肩書あったら…いいな」という単なるミーハー精神です(苦笑)(もっとも、一部には自分の田んぼや集落周りの獣害対策に一役買えたらという思いも少しはありましたが)。中野さんという、西敷屋のすぐそこの本宮町大津荷にお住まいの凄腕の猟師がいらっしゃいます。その方が、日頃、柴田さんをはじめとする若者によくしてくださる。


  猟の仕方を彼にならって、あわよくば、そこからビジネス、ナリワイに繋げられないか、と。そういうことで狩猟免許を取ろうとしていた柴田さんに便乗する形で僕も免許獲得を目指す流れに先月なったわけです。試験の申請用紙の生年月日の記入欄に大正と昭和の年号しか印刷されておらず、平成がなかったのにはビックリしました(苦笑) 試験は当初のビクビクとは裏腹に、あっけなく突破できました。試験に先立って、講習を受けたり、自習をしたりもしたのですが、それらは狩猟の実践には殆ど役に立つものではありませんでした。中野さんのわな教室を楽しみに待ちたいと思います。


  今月末にはこれまた柴田さんに便乗する形で、岡山・島根・大阪に先進地ツアーに行ってまいりました。毎日が充実していたのですが、特に最初の3日間は圧巻でした。


  1日目に訪れたのは、岡山県美作市の「上山集楽」(「楽」は誤変換ではありません)です。「津山たかくら塾」という地域づくりの担い手を育成しようという事業があり、その事業に山崎さん(通称まっしゃー)という「共育学舎」に縁がある方が参加されていました。普段は名前の通り岡山県津山市の高倉という地域がメインなのですが、今回の講師が「上山集楽」の西口和雄さんだったということで、現地の視察がてら、そこで講義を行おうということになっていました。その日程と僕らの視察のスケジュールがちょうどマッチングしたので同行したという訳です。 実はこの「上山集楽」を僕は以前から知っていました。私の大学の先生が発行しているメルマガで「上山集楽」について書かれた『愛だ!上山棚田団-限界集落なんて言わせない!』という本の書評が掲載されていたからです。ですから、今回の視察はひときわ楽しみでした。


  「上山集楽」は集落の棚田、耕作放棄地の再生事業を中心に多角的に事業を仕掛けている団体なのですが、まずその棚田再生事業が凄い!そもそもの「上山集楽」の起こりは、竹藪、蔦に覆われたかつての上山棚田の壮観を知ったかっちさんとその仲間たちが、棚田の再生を夢見、決心したことにあるのですが、その規模はというと何と田んぼ8300枚!! その棚田群の再生を2007年から彼らは手掛けてきたわけですが、現時点で林藪はほぼ一掃。実際に耕作している面積こそ、まだ全盛期とはほど遠いとはいえ、それでも収穫量1トンを超えるまでに耕地化が進んでいます。


 竹林、藪に覆われたかつての千枚田から、絶望ではなく「これを再生できたら、なんて素敵だろうか」希望を見出した。そして、それから余所者&馬鹿者が次々と集まって耕地の再生を始めた、という非常にポジティブで魅力的な原点が「上山集楽」にはあります。そこから展開され続ける事業・ストーリーも、このイメージに沿った、上山が限界集落であることを忘れさせるような非常に前向きで明るい色彩が貫かれています。「集楽」というブランドの創出、発展に見事成功しているといえるでしょう。だからこそ、人が集まり、意図せぬ化学反応が次々と進み、膨大なエネルギーが生じ、今、並々ならぬ注目が注がれるに至っているのだと思います。


  そして、また、棚田再生以外の事業もすごいのです。例えば、今、上山の全戸にiPadが備え付けられています。(詳細な理由は忘れましたが、過疎地の先進利用事例かなんかとして)Appleにタダでもらったそうです。「上山集楽」のメンバーは常にFacebookで情報発信を行っているので、地元のおじいちゃんおばあちゃんらは彼らが何をしているか常に目にすることができるし、コンタクトを取ることもできます。また、上山にはセグウェイがあります。これも、タダで入手したもので、関西圏のセグウェイの委託販売を行いがてら、田舎からセグウェイの導入モデルをアピールしていく狙いがあるそうです(当初の予想より、かなり実用的で楽しい乗り物でした)。  「楽しいことは正しいことだと思ってやっている」とかっちさんは言います。一面の真理を突いていると思う。また、「上山集楽」が手掛けている事業を見ていると、「楽しいことは正しいこと」このスタンスにたってこそ見えてくる風景もあるんだなぁとも思います。


  例えば高齢者の安否確認をどうしよう、Iターン者と地元民の交流をどうしよう。どうしよう、どうしようといくら悩んでも、iPadをアップルからもらって全戸に配るという発想には至らないでしょう。過疎交通→セグウェイにしても同様のことです。「生真面目に問題をどうしようどうしよう」と思うのではなく、「こんなことあったら素敵やん」という発想で物事を考えるということは見習うべき点が多いかと思います。


  また、「交易」という考え・観点も非常に面白いな、と思いました。「上山集楽」は、持続可能な社会を創ることを目標に掲げているとはいえ、「自給」を原理主義的には考えていません。食糧やエネルギーなど生活の根本となるような分野に関しては、やはり相当力を入れてこれを自給しようと努めています。しかし、他の分野に関しては都市と田舎と、双方でない資源を補完しながら対等な立場で交易することでカバーしようとしている。例えば、医療に特化した自治体と協力協定を結ぶなどといったことです。これも、「楽しいことは正しい」のスタンスだからこそなせる技でしょうか。


  事業展開のスピード感、事業自体のユニークさ、これらを総括する「集楽」のブランディングが功を奏して脚光を浴びている格好となっている「上山集楽」。恐らく、これからメディア露出も相当多くなるであろう予感がします。かっちさんのいう「縁脈」が今、「上山集楽」では大爆発している状態にあり、同地がどういう進化を遂げていくかは全く見通しが立ちません。ただ、1年後、2年後、3年後、良くも悪くもますます注目を浴びていく地域になるだろうな、と直感的に思いました。地域おこし協力隊として、活動している現役の大学生もいたりして、初日から非常に多くの刺激を受けることとなりました。


  2日目に訪れたのは「森の学校」です。この「森の学校」も実は既に知っている団体でした。「山の学校」に出会わなければ、福井県若狭町の「かみなか農楽舎」という所か、この「森の学校(≒トビムシ)」にお世話になるつもりでいたからです。ただ「森の学校」のことも「上山棚田」のことも知っていたわけですが、この2つの先進地があんなにも隣接した場所にあるとは思ってもいませんでした。岡山、恐るべき県です。


  西粟倉村は2004年に美作市との合併を阻み、自立して過疎・少子高齢化に抗う道を選びました。合併構想から離脱したことを契機に、住民との話し合いを通して、西粟倉町がどんな町を目指していくか、そのビジョンを徹底的に話し合ったそうです。心と心をつなぎ価値を生み出していくという「心産業」というコンセプトを大事にしていこうということ。そして、その「心産業」の軸に「森を守っていくこと」、「林業を育てていくこと」を軸に据えることが住民のコンセンサスとして形成されました。 この成果を基盤として、2008年の後半に「百年の森林構想」なるものが掲げられました。「森の学校」の代表である牧大介さんが中心として練り上げた、ため息が出るくらい綿密な事業計画です。これが西粟倉村及び森の学校の取組みの土台となっています。


  まず、この構想の成果として、他セクター同士の役割分担が非常に明確になっているということがあります。例えば、役場に山林を集約させて、その山林を使って一民間事業者がビジネスを、という柔軟さは新宮市では考えられないと思います。連携も非常にスムーズになされているような印象を受けました。 役場、森林組合、それぞれのセクターにそれぞれの役割があるわけですが、その中で「森の学校」は、言わば西粟倉の総合商社的な役割を担い、地域のブランディング、産品のセールス等を行っています。そして、「トビムシ」という、これまた牧さんが代表取締役を勤める会社がファウンディングを行い、外部から資金を集める役割を担っています。「森の学校」が「百年の森林構想」の核であり、その円滑な事業運営のために、他セクター 「森の学校」が生産する商品のショールームや木材の加工場も見学させていただきましたが、「地域は下請けではない」という牧さんの言葉通り、極めてスタイリッシュで高品質な商品が出来あがっていました。最初は全くの素人集団がここまでやったというのですから、やや驚きを隠せない面があります。


  こうした事業展開はやはり会社が事業主体となっているから出来たことなのでしょう。公金頼みで、自分主体で資金繰りを行うという前提がなければ、あそこまで堅実で現実的な行程計画は普通出来ないし、そもそも作ろうとも思わないことでしょう。 ただし、精度の程度こそあれ、最初に団体として、地域として目指すべきビジョンを固めるという作業は、その地の取り組みを一過性の取り組みで終わらせないためにも必要不可欠なものとなってくるだろうな、とつくづく感じました。


  また、「見せ方」の重要性についてもよくよく学ばせていただきました(ニシアワーという森の学校の西粟倉の広報サイトのようなものがあります。それを見ていると西粟倉があたかも桃源郷のような所に思えてくるのですが、実際に行ってみた印象は、旧熊野川町と何ら違いのない日本の一地方だな、という程度のものでした)  3つ目の視察地は島根県邑南町。目当ては「耕すシェフ」という事業です。「上山集楽」で初めてお会いした柴田さんの先輩で有限会社「エコカレッジ」の社長の尾野寛明さんにもご同行いただいての視察となりました。「耕すシェフ」は同町の超やり手公務員である寺本英仁さんが「地域おこし協力隊」という総務省の事業を活用して立ち上げた政策です。邑南町は食による地域振興「A級グルメ立町」を町の重要政策として掲げており、農産物の生産から、加工・料理の仕方、はたまた情報発信まで。食と地域振興の先端モデルの創造を一から担える人材を集め、育てていくのがこの事業の趣旨です。


  その耕すシェフの(シェフとしての)職場となっているのが「素材香房ajikura」というレストランです。このレストラン、町営なのですが、そのクオリティーは圧巻でした。内装極めておしゃれで、コースメニューは1200~2200円という非常に良心的な価格設定です。味も文句なしに美味い(東京の港区でこのレベルのサービスを受けたら、倍以上の値段がするでしょう)。更には店内には、「耕すシェフ」を取り上げた新聞記事の金属プレートが設置され、地元の生産者のインタビュー動画が店内の大きな液晶TVで放映されているなど、町営の施設として町のPR機能も十二分に果たしていました。「6次産業、6次産業っていうけど、平凡なところはジャム作って、それで6次産業って満足してんだよ。でも、そんなんじゃダメだね。1×2×3の6次産業を語るからにはこれくらいのレベルじゃなきゃ」というようなことを尾野さんがおっしゃっていましたが、正しくその通りだと思いました。


  驚くべきは、これを一町役場が、厳密にいえば一町役場の一職員が(尾野さん曰く、町長との阿吽の呼吸でもって上手く成り立っているとのことですが)この事業を手掛けたということです。 地方発のユニークな取り組みは以前からいくつか知っていましたが、その殆どが民間セクターにより手掛けられたものでした。しかし、惰性化している(と私が今まで勝手に思ってきた)基礎自治体単独の試みで邑南町はここまでの事業を手掛けていた。やはり、地方行政といっても一くくりに見てはいけない、「新しい公共」の時代にあっても、本家大本(?)の行政の可能性、できることは大きいなということに改めて気付かされました


 「上山集楽」は市民(NPO)、「森の学校」は事業者(株式会社)、「耕すシェフ」は行政、今回、いわば私は各セクターの先進地帯を見て回ってきたということになります。3者の機能が完フル回転せずとも、どこか1者に元気なところがあれば、こんなにも魅力的なことができるのだということをまざまざと見せつけられたような思いがします。


  その後も島根県川本町にある尾野さんの店舗・オフィスに行ったり、大阪府議会・市議会を傍聴したり、三枝さんのブレーン(?)で人格者の山内さんの「ぷろぼの」を視察させてもらったりと大変充実した視察旅行でした。


  また、(蛇足かもしれませんが)今回の視察旅行は結果的に大変美味しいグルメツアーとなり、初日のホルモン焼きから最終日の「清澄の里 粟」のコースメニューまで始終旨いものを食べ通しでした(個人的な一番は「ミセス・ロビンフッド」という精進料理のお店のランチです。メインはもちろんのこと、添えつけのキャベツにまで、優しい味わいが通底していて、ちょっとした衝撃を覚えました)。

   同時に、本当にありがたいことに、一日も欠かさずお酒をいただくことができました。


  心身ともにエネルギーを充填出来たところで、これを弾みに休学後半戦も全力で駆け抜けたいところです。敷屋村塾という敷屋発の学びあいの場の第一回講師を拝命してしまったのですが、その講義内容を練る上でのヒント、素材もたくさん得ることが出来たように思います


  …今月はこんなところでしょうか。それではまた来月末にお会いしましょう。

2012年8月31日金曜日

8月分活動報告

 今月はキャンプが生活の大半を占めた一月でした。どういうキャンプかというと、ここ旧西敷屋小学校を生活の場として、小中学生を受け入れるというものです。このキャンプは学校の例年行事らしいですが、今年に関しては去年の大水害のことを鑑みて中止の方向で考えられていました。いざというときの適切な避難場所が学校周辺にないためです。事実、結局のところ表立った告知・募集は行われませんでした。しかし、リピーターの子ども側から先んじてキャンプに参加したいという要望があり、日にちを限定して今年も開催される運びになりました。参加したのは、新宮市に元々住んでいて今は和歌山市に引っ越している姉妹と、兵庫県の姉弟の2ペアに加えて地元の子2人の計8人です。  キャンプ期間中、色々な出来事がありましたが、その中でも特に印象に残ったのが盆踊りの屋台出店と高校生が来校したことの2つです。


  まず、盆踊りの出店(とそれに伴う前日準備)について。この経験は大人の私にとってもだいぶ考えるところがありました。大人が一から十までお膳立てした上で子どもにお店の手伝いをしてもらうという形式ではなく、あくまで主体は子どもで資金繰りをどうするのというところから話は進められました。「どうすれば利益が出るか分かる?赤字ってどういうこと?」「そもそも材料を買うお金をどうするの?社会では無償で貸してもらえるっていうケースは少なくて、銀行から融資を受けるか、投資家に投資してもらうか。…いずれにしてもリスクや手間がかかることなんだよ」などなど、大人連からは次々と現実的な問いが投げかけられていました。「こんなにイジメて大丈夫かな…」と内心思いながら見守っていましたが、子どもたちは案外たくましかった。首をひねりつつも、屋台を出店して稼ぐまでの仕組みをしっかり理解し、実際の計画立案に生かせていました(資金についても、結局、偶然そこに居合わせた慈善事業家(?)の宮永さんから子どもたち全体で20000円の無償借款をうけることができました)


  子どもグループは最終的に2つに分かれて、1グループはかき氷、1グループはたこ焼きという構成でした。自前で出店する人を除いて、大人は各グループのアドバイザーに着任しました(ちなみに私はたこ焼き班でした)。子どもたちは小遣い稼ぎがかかっていますから、それなりに真剣に計画建てに参加していましたし、大人の方も請われたわけでもないのにかなりガチンコで取り組んだので、子どもグループ2つについてはかなり盤石な準備が出来ていたように思います。当日は天候がだいぶ危ぶまれていたのですが、夕方にはすっかり晴れ間が差し、無事屋外で出店することが出来ました。結果としては子ども店舗は、かき氷がダントツの独り勝ちで、たこ焼きも黒字を計上することができました。大人勢がこぞって苦戦したのとは対照的に、焼き鳥屋に参加した子以外の子ども全員に小遣いが配当される形になり、非常によかったと思います。  思うに屋台というのは商売の原点です。立派な起業です。起業というと今まで僕はITベンチャーのようなものばかりを想像していました。何時しか、大学で「起業する。カフェをやる」と言った友達を笑ってしまったこともあります。でも、それは根本的な間違いでした。 起業と聞いて、年商数千万、一億ぐらいは叩き出せて、社員がいて、ちゃんと法人格を持った会社を設立する…そんな狭くあやふやな概念でしか起業を捉えられなくなってしまったのは何時ぐらいからだったでしょう。辞書で「起業」という字を引いてみると「新しく事業を起こすこと」というぐらいにしか書かれていません。


  規模がどんなに小さくても、体系的、恒常的な組織でなくても、起業と呼びうるものは五万とある。原価計算や簿記のやりくりの仕方、効率のよい売り方、店じまいの煩雑さ…屋台という一つの商売、起業がどのような準備、実践の元で成り立っているか試行錯誤しながら学んでいる子どもたちを見てそんなことに気づかされました。そういえば、共育学舎で同居している先輩の1人が県の制度を使って今、起業の準備を進めていますが、その起業も今まで私が想定していた狭い起業の概念からはちょっとはみでた性質のものです。ですが、都市圏でよくあるスマートフォンのニッチなアプリ開発で小銭を稼ぐような起業と比べて遥かに意義がある起業だと思っています。


  今まで、学校を出て社会に出る選択肢は就職か起業か、この2つに1つくらいしかないと一般的には考えられていました。就職はデスロード。とはいえ起業も限られた人にしか出来る行動ではない…そんなことを思いこんでいる人がいるとすれば、その人にとってこの世は本当の地獄です。 しかしながら、起業の概念を広く考えること、あるいは起業と一くくりにされているものの内実をよくよく整理するということを通して、その固定観念は変えられるかもしれません。私自身は並河さんや柴田さん、三枝さんや伊藤さんとの出会いを通して、第3、第4の道が実際にあることに気付きましたが、見方を変えれば、彼らがやってきたことの殆どは「起業」といって差し支えないのではないだろうかと思います(三枝さんが若いころに実践していた「働かない」という生き方はこれとはまた別のものですけど)。


  高校生がやってきたのは、キャンプ期間の中盤だったでしょうか。名古屋のミッション系の女子高生2人がボランティアとしてやってきました。 「Re-Hi」という関西圏の大学生が主体になって運営している団体があります。去年の水害の際にこちらでボランティアとしてやって来て、その後も熊野川との縁を大切にしたいということで毎月旧熊野川町をフィールドに活動しています。


  今回、高校生2人はこの団体に乗っかってやってきました(だから、キャンプとは直接の関係はありません)。高2の子が県外のボランティア活動に行ってみようかなんてなぜ思い立ったのでしょう。そもそも「Re-Hi」という(少なくとも僕の理解では)とてもじゃないけど著名とは言い難い団体をどうやって見つけてきたのでしょうか。子ども以上に数多く、また目まぐるしく大学生、大人の入れ替わりがあった一月だったので、ついつい彼女たちとは特別に話すこともなく別れたのですが、今、思えば惜しいことをしました※。


  ※三枝さんの突拍子もない気まぐれ(?)から、キャンプ半ばから、学校に滞在していた大学生で輪番で子ども向きの授業をすることになりました。私はちょうど彼女らのいる期間に担当になりそうだったので、(しかも、2人のうち1人は考古学に、もう1人も歴史学に興味があって進学を迷っているということだったので)けっこう気合いを入れて授業を仕込んだのですが、その日以降けっこうてんやわんやの毎日が続き、結局立ち消えになってしまったということもありました。それも心残りといえば心残りです。  東北にボランティアに参加している高校生が少なからずいるということは話には聞いていました。しかし、ああして実際に眼前にボランティアをしにきている学生が現れたということは私にとってみればちょっとした事件でした。


  私が彼女くらいの時分にも「岩手・宮城内陸地震」というそれなりに大きな災害がありました。ただ、私の周りには、この災害に際して、当時東北に行ったという同学年は(多分ですが)一人もいませんでした。去年の東日本大震災まで、日本国内で、あるいはどこか海外で、災害が起こっていても、私はどこかそれを他人事のようにそれらを捉えていた面がありました。無論、悲惨な現地の映像などを見て、心を沈ませたことは幾度もありました。しかし、あくまで私にとっての災害はそれ以上のものでも、それ以下のものでもありませんでした。


  東日本大震災が起こって、私は生まれて初めて今までと違う行動をとりました。実際に現地(気仙沼)に行ってみたのです。


  単純に今までの災害とは、規模も受けた衝撃の度合いも桁違いということもあったでしょう。また、自然災害だけでなく原発事故も併発し、ある意味自分たちもその渦中にいた、被災していたということもあるでしょう。色々な理由が絡みに絡んでいるとは思いますが、兎に角、災害発生から数週間経っても、数か月経っても、一向に今回の災害のことは頭から抜けませんでした。不謹慎かも分かりませんが、現地で何が起こっているのかこの目で見てみたいという興味のようなものも沸々と湧いてきました。だから、実際に行ってみました。高校生たちも私と似たような次元で、この震災を受け止めたということなのでしょうか。


  私の見立てでは、彼女たちはごくごく普通の高校生でした。飛び抜けた英才でもなければ、奇人変人の気もありませんでした。


  少数の例で全体を判断するということはあまり好きではないのですが(総名○○人の高校生がボランティアに参加した…というような統計的な史料を見たわけでもないので)、もし仮に3.11が、高校生あるいは中学生がひょいと地元内外のボランティアに出かけていく、そのハードルを下げたのだとすれば。そして、コレを契機に中高生のボランティア(やそこから派生した学校外での活動)がごくごく当たり前の現象になったとしたら…。果たして、これはどのような意味を持つのでしょう。もし、そんなことが現に起こりつつあるとすれば非常に面白い潮流が起こるなと感じています。


  特別心に残った出来事は以上の2つですが、その他にもたくさんの細々とした出来事がありました。大富豪(トランプゲーム)や鬼ごっこ、川遊び、プール遊びとエネルギッシュな子どもたちにだいぶ振り回されて疲れはしたのですが、精神的にはとても充足した素晴らしいキャンプだったと思います。


  キャンプ以外のことで言えば、狩猟免許の資格に挑んだり、地方行政の現状の一端を垣間見て思うことがあったり、翔学米関連で進展があったりしたのですが、これらについては(全て触れられるかは分かりませんが)字数の関係上来月分に回すことにしたいと思います。


  …今月はこんなところでしょうか。それではまた来月末にお会いしましょう。

2012年7月31日火曜日

7月分活動報告

 「憑かれている」とまで言われるほど、田んぼに入り浸りだった私ですが、ついに今月半ば、草取り作業を完遂することができました!水の管理などはこれからも継続しますが、大きい作業としては後は(多分)収穫を残すのみ。稲が育つのは本当にあっという間です。


  田んぼの行程に目処がついて、ちょっと集中力が切れたせいもあるでしょうか。和歌山の夏には今ちょっとまいっています。暑さもさることながら、東京より一段と強い湿度。ダルさが来たら自販機で炭酸を買う、あるいは冷房がガンガンに効いたコンビニに逃げ込むという都会生活に慣れきった私に、この気候はちょっとした試練です。ただ、こちらに来てから入手した皆地笠と周辺に川がある環境には非常に助けられています。


  皆地笠は別名貴賤笠(皆地はお隣本宮町にある集落名です)と呼ばれ、古くから熊野の参詣客や地元農民、釣り人達に愛用されてきた伝統工芸品です。今は芝安男さんというおじいちゃんただ1人がこの技術を伝えています。私が初めてこの皆地笠に出会ったのは、お隣の集落笹尾の芝刈り手伝いに行ったときのことでした。その日、早朝急いで出発したためにかぶり物を忘れた私は地元のおばあちゃんにこの皆地笠を貸していただいたのですが、その時の笠の匂いの芳しさ、装着時の軽さ、涼しさにほとほと感嘆してしまったのです。今では、畑仕事、田んぼ仕事には欠かさず使用しています。安っぽい服装と休学当初とはすっかり変わってしまった色黒肌とを併せて、笠装着時の姿を「ベトナム人」と揶揄(?)されたことがあったのですが、…なるほど、田んぼの中で腰を屈めて笠をかぶる姿は自分で見ても、一瞬ここは東南アジアかと錯覚させるものがあります(笑)。

  ところで、この笠、油が塗りこまれていて雨天にも使えるのですが(これがなくては田の草取りを穂が出る前に終わらせることはできなかったと思います)、さすがに背中全域まではカバーしきれません。だから、どうしても蓑が欲しくなる(笑)ただ、あながち、これは冗談ではなく「完全に防水したい」とかいう訳でなければ、レインコートよりも蓑の方が手軽で涼しく便利な気がします。見た目が現代流でないだけで、あるいは固定観念で使い古された技術だと思いこまれて、お蔵入りしている古くから伝わる技術って意外と多くあると思うのですが、コレ如何に。


  皆地笠についての話がだいぶ広がってしまいましたが、川についても二言三言。

  生活に川があるって素敵なことだな、と思います。日中炎天下の畑作業の後に川に身を任せてだだべるのは言葉では言い表せない最高の快楽です。クーラー、扇風機がなくてもなんだかんだで健康でやれているのは間違いなくこの恩恵があってのこと。また、作業後だけでなく、暑さで集中力が続かない日は昼過ぎの休憩時間に海パンに着替えて泳ぎに行きもしますし、川湯に入浴する際は脇で流れている川を水風呂変わりに使ったりしています。更に、私はまだよく要領が分かりませんが、地元の方は、鰻や川エビを良くとって遊んだものだという(鰻に関しては今も皆さん早朝元気に取りに行かれます)。去年のような恐ろしい水害が何十年に一度は襲うとはいえ、川はいつもはこれほどまでの恵みを授けてくれる。要は個々人の気持ちの持ちようなのでしょう。


  今月からパン作りの手伝いをさせていただけることになりました。何で一番不器用で使い勝手の悪い私にお声がかかったのかな?と最初は思いましたが、どうやら1年確実に滞在してかつ伸び代がある(?)僕を戦力になるまで育ててくれようとしてのことらしい。前々からパン作りには密かに関心があったのですが、学校で行うパン作りは業務用に直結しているので不器用な私としてはどうしても尻込みしてしまっていました。それがお願いするまでもなく今回声をかけてくださったのは非常にありがたいことです。


   こう言うと何だか矛盾するようですが(ありがたいし、事実毎回かなり楽しみにしてもいるんですが)、実際の作業中はだいぶやきもきしています。手伝いとしてこの場に来ているのに役に立てない、そしてなかなか上達しない…。自分の不器用さにやきもきすることは滞在期間中幾度となくあるのですが、パン作りで貢献できていないことを実感する時ほどそれが募る瞬間はありません。また、先に述べたとおり業務用のパン作りで時間的にも余裕がないため、簡単な説明を受けたあとはどうしても見ながら覚える部分が多くならざるをえません。今までは、出来ないからには一から手取り足取り教わって当然だ、と居直っている思いあがった自分がいたように思います。そんな自分に作業中気付くと余計むしゃくしゃする。教えてもらわにゃ何も出来ない受身の人間からは一刻も卒業しなくてはなりません。


  ややネガティブなことを書き連ねました。とはいえ、学びの場がこうして豊富にある環境は本当にありがたいと感じています。パン作りのような時間的に切迫した作業は例外的で、いつもはかなり丁寧に皆さん教えてくださってます。滞在して間もないころは、その中心は三枝さんでしたが、今では決して彼だけではなく(もちろんその比重は大きいのですが)、学校に滞在している1人1人が先生をしてくれる。各野菜の調理の仕方や料理の段取りだったり、番線のねじり方やロープの使い方だったり、はたまた英会話だったり、本当に色々です。三枝さんのところの3歳児と一緒にいても(満更でもなく)得るところがある。学校に同居している方々を中心にして地域の人々・自然、来訪者と同心円状に学びの場が広がっている。いい環境にいるなとつくづく思います。


  こうして色々教わっていると、もらいっぱなしで他人に何も教えられることのない自分が少々虚しく感じます。たかがハタチの小僧だからしょうがない、と自分に言い聞かせようとしても、どうにも割り切れない部分がある。ただ、どうしようもないことはどうしようもない。せめて教えてもらっている分を出来るだけ全て吸収できるよう努めるのが最低限の報いなんだろうなと思っています(これも「言うは易し行うは難し」なことですけどね)  冒頭で、田んぼが一段落した、と述べましたが、裏を返せばそれはThink Shinguの研究員としての実践・研究業務を怠る言い訳(?)がなくなった、ということでもあります。今まで全く何も考えてこなかったという訳ではもちろんないのですが、残りの滞在期間も鑑みてそろそろ研究員として行動せねばならない時期に差し迫っていることは事実でしょう。  その一環として、今は高校生向けの「奨学米」企画というものを考えています。


  そもそものキッカケは、柴田さんに「せっかくそんなによく手入れした米なんだから、何かに使ったら?」とご助言いただいたことです。僕は今、1段4畝ほどの田んぼを育てているのですが、それまで私は米の用途を考えたことがありませんでした。言われてみれば、これだけの田んぼから取れるお米を自分の身の回りだけで消費できるはずもない。そこで今、既存の「奨学米」という制度に着想を得つつ、新宮のために何が出来るかを考えているという訳です。 その中でも中核になりそうなのが高校生向けの事業です。企画内容としては、現段階では、200kg~300kgほどのお米を販売用に供出して、そこから得られた利益を学生に還元・給付するという形が現段階では念頭にあります。何のための給付かというと、海外渡航の後押しのためにです。 7月まで学校に滞在していて、今は新宮の方で独自に塾を開業しようとしている方がいます。その方は、現在、カリフォルニア州のサンタクルーズという市と新宮市との若者交流のインストラクターを担っています。  この交流事業、話を聞いてると、どうもギチギチで自由度が低いスケジュールらしいのです(しかも費用もそれなりに高つく…)。初めての海外渡航がそのように管理された、おじさんおばさんのツアー旅行みたいな内容になってしまってはもったいない。もっと別の選択肢を示してあげられないだろうかという話を皆でしたことが今回の企画の前提としてあります。


  大学生になってから、海外を旅する人はザラにいます。しかし、私としては、今の中高生にはなるべく早い段階でたくさんの実体験を積んでほしい。そして、視野を広げた上で、より多くの選択肢が見える状況になった上で、岐路に立ってほしいと願っています。その経験は何も海外渡航に限らずともいいのですが、起業であったり、ギャップイヤーを利用してのインターンであったりは少しハードルが高いと思う。その点、ちょっとした後押しがあれば、一歩を踏み出してくれるかな、という期待がもてるという意味でも海外渡航という設定は活きるのではないかと思っています。


  ただ、今のところの判断材料は交流事業に参加している高校生(についての又聞き)だけですから、独りよがりな認識になっている恐れがある。ですから、今後は新宮市内の高校生と直に対話をする場を増やして、より現実に沿った企画に修正していければなと思います。


  また、まだしっかりとした形にはなっていませんが、海外留学生向け奨学米や、サンタクルーズとの交流事業のためにお米を使うことも検討中です。収穫が済んだわけではなく、正に「捕らぬ狸の皮算用」ですが、構想は膨らむばかりで今から楽しみな限りです。


  …今月はこんなところでしょうか。それではまた来月末にお会いしましょう。

2012年6月30日土曜日

6月分活動報告

 菜種、小麦、じゃがいもとたて続きに人手の要る収穫が続き、あとは田んぼ、田んぼ、田んぼというのが6月だったように思います。ということで、今月は前々から書きたくて書きたくて仕方がなかった田んぼでの学びについて書きたい。 最近は晴れの日であれば、田んぼに入らない日はないといっていいほど田んぼに入り浸っています。「NO 田んぼ、NO LIFE」です(笑)。お米を育てるにあたって、最初のころ「マニュアル一辺倒ではなく、自分を通してお米のことを考えること。そうすればやるべきことは田んぼが独りでに教えてくれる」と教わりました。この話を三枝さんにしていただいたのは、箱苗の朝露を人間の寝汗に例えられてのことだったと記憶しています。


  自分を通してお米のことを見つめることで得られることは何もお米のことだけではありません。お米は自身の鏡にもなります。育苗段階の苗で、化学肥料を使ったものと使っていないものとでは一見すると使ったもののほうが背丈が高く育ちがよいように見える。しかし、それはあくまでちょっと見ただけでの判断です。よくよく見てみると後者の方が葉がより多く別れていて、根もしっかり張っている。「人間もこれと同じで、どんどん肥料を詰め込んで成長を急かし、見栄えだけは良い人間を育てているのが今の教育だ。俺は後者のような人間を育てたい」、と三枝さんはおっしゃっていました。僕はまだたった20年しか生きてませんから、このことについて確信を得るにはもう少し時間が必要なように思う。ただ、初めてこの話を聞いた時のすっと腑に落ちた感覚は今でも覚えています。こうして文章を書きながら田んぼを眺めてみても、三枝さんの田んぼの深緑の深さは際立って見える。丈に関しても、当初は他のおじいちゃんの田と比べると目に見えて小さかったのですが、今では遜色がほとんどないくらいに成長しました。


   「自分を通してお米を見る」ということを自分がどれだけ実践できているかと問われると何とも心許ないものがあるのですが、少なくとも我が身より田んぼ、という状態にはなっています。今月、6月早々に台風が直撃し、西敷屋中が騒然となりました。避難することになったら、まぁその時はその時だなという程度に構えていましたが、田んぼに関してだけは本当に気がかりで、川の氾濫に巻き込まれてしまわないかどうか一日中ずっとやきもきしていました。最近、地味に響くようになった腰痛も自分の田んぼに入っているときは不思議なことにそれほど気になりません。


  また、一つ一つの作業に一番集中できているのは間違いなく自分の田んぼにいる時です。あることをキッカケに「一つの作業をしているときは、その作業のみに集中する」ということを出来るだけ念頭に置いて日々取組むようにしています。至極もっともで、当り前のことのように皆さんは聞こえるかもしれません。事実、僕も最初はそう思っていました。でも、実際に取組んでみると、コレ、なかなか難儀なことなのです。


  座禅というものがありますよね。アレはやっている行為そのものだけに焦点を当てれば、自身の丹田に、あるいは自身の呼吸にのみ意識を集中させるという極めて単純な行為です(。しかし、実際にやってみれば分かるのですが、これがまた難しい。10秒もしないぐらいの間隔で、雑多な考え(のカケラ)が浮かんでは消え、浮かんでは消えを幾度となく繰り返す。自分でも呆れてしまうくらいです。 居直るわけではないですが、単に息をするだけのことにも専念できないのですから、他の作業のこととなると尚更難しいのは当然かもしれない。私は元々怠惰な男です。何かの作業が始まると、脳内に音楽が再生される、あるいは実際に歌をくちずさんでしまうということは日常茶飯事でした。今でこそ、そんな舐めた真似はしていませんが、それでも、頭がいつの間にか作業外のことに飛んでは、ハッとして引き戻し、飛んで行っては引き戻しの繰り返しです。ただ、それが自分の田んぼのこととなると、わりかし集中して出来る不思議があります。


    一つの作業に-完璧ではないにせよ-集中することができると、「なぜ、その作業が必要なのか」という本質的な部分を問うことができるようになる…気がします。田車という手押しの除草機があります。先月、今月と三枝さんの田んぼも併せてカウントしたら、何回やったかちょっと分からなくなるくらいこの田車を頻繁に使いました。当初は勝手が分からず、膝の屈伸と併せて押し引きをすると余計な力を使わずに済むとか、そういう発見をして、早く押せるようになる度に一々喜んでいました。しかし、一度立ち止まって考えてみると、田車を押すのは別に早く終わらせることが目的ではないのです(もちろん、早く押せるに越したことはないのですが…)。進む幅が大きいと、歯車の掻き乱しがどうしても粗くなる。だから、自分自身が進む幅は基本的には短い方がいい。また「引いて、押して、一歩踏み出す、引いて、押して、一歩踏み出す…」という基本動作を教わって、最初はその通りにやっていたのですが、雑草が多めに繁殖している箇所では「引いて、押して、引いて、押して、引いて、押して、引いて、押して、一歩踏み出す」ぐらいのことをしてもよいわけです。植えてから2週間後の第1回とすっかり成長した後の3回目、4回目とでも当然要領は異なる。稲周りをなるべく残らず取り除くにはどうすればいいか、稲の根を切らないためにどういう工夫ができるか…考えるべきことは本当に多いです。これもまた私が来た当初に言われたことなのですが、ここでの学びは一つの問いに一つの答え、与えられた問いにただ答えていればいいという学校教育とは本質的に異なります。最初はただ何となくの頭だけの理解でしたが、今ではそれが痛いほどによく分かります。

    私の師匠(4月分の報告書でお話したジャーナリストの先生のことです)には講演やコラムの執筆でよく用いる受け売りのテーマというのがいくつかあるのですが、そのうちの一つに「InformationとIntelligence」というものがあります。この2つの言葉、両方とも「情報」と訳しうる言葉です。しかし、前者は量を、後者は質を司っています。ご本人の弁を借りて比喩的に説明すると「収穫した葡萄を篭に山積みしているのがインフォメーションである。その中から粒を選んでワインを醸造して、さらにその中から極上のものを選んで蒸留器にかけて、一滴ずつエッセンスを取り出したのがブランディーであって、それがインテリジェンスである」…ということになる。

   InformationをIntelligenceに高めるためのしなやかな頭を育てる、というのがその先生のゼミの大きな主眼の一つでした。当初は「何とも大仰な…」と苦笑いしていたのですが、受講を続けるうちに次第に、先生のゼミに関わらず、大学教育(とりわけ文系に関して)の本質は遍くIntelligence教育にあるんじゃないかな、と思うようになりました。大学に2年間通ってみて分かった事ですが、学部のたった4年間で1つの専門を究める、知識をつけるということはかなり難しいことです。それよりかは、修士・博士の前段階として、一つの学問の方法論を頭に馴染ませるということに学士の重点は置かれているといってよいと思う。歴史学なら歴史学、経済学なら経済学の学問的手法でInformationの集め方、それを整理してIntelligenceへの昇華させていく方法を修得する…といった具合にです。いわゆる一般企業の総合職も本来ならこうした能力を備えた人材を求めているのでしょう。


  この「InformationとIntelligence」について私が一つ見落としていた点がありまず。それは、何もこの話は「論理」の領域に限った話ではなく、「身体」の領域においても当てはまる話であるということです(若干ニュアンスが違いますが「論理」、「身体」をそれぞれ「左脳」、「右脳」と置き換えてもらったほうが、分かりやすいかもしれません)。


   先の田車の例はIntelligenceなどというと何とも大袈裟な感があるけれども、「場面場面に散りばめられた情報を即時に判断して、最適な行動を割り出す」という行為は(こちらの方が瞬発的、瞬時の判断が求められるという違いはありますが)先の話に確実に通ずるものがあります。もしかしたら、Intelligenceというよりは勘という呼び名の方がしっくりくるかも分かりません。先月は、「身体脳力」などという何とも不細工な造語を作りましたが、これは畢竟、頭がまだ整理できていない状況下で今述べてきたようなことを記しておきたかったからです。


  論理分野でのIntelligenceでしたら、まだまだ未熟とはいえ20年間それなりの研鑽は積んできました。しかし、身体の方は全く未開発です。僕としてはこの両方のIntelligenceを身につけて初めて一人前の人間になれると見做したい。先月述べたことの焼き直しになりますが、こちらの生活では後者を鍛えるチャンスが毎日のようにあります。その折々の機会を無為にこなしてしまわぬように気を引き締め直したいところ。特にこれから来る夏場は要注意ですね.

  もう7月…、滞在期間の既に4分の1が経とうとしています。月並みのコメントですけど、月日って本当にあっという間だな、とつくづく感じます。ちょっぴり焦っている今日この頃です。


  …今月はこんなところでしょうか。それではまた来月にお会いしましょう。

2012年5月31日木曜日

5月分活動報告

 生まれてこの方20年、初めて頭にバリカンをいれてもらいました。例年の5月であれば雑草性の花粉に苛まれ、鬱々とした毎日を送っているところなのですが、頭をサッパリさせた恩恵でしょうか。それほど大きく体調を崩すことなく乗り切れた感があります。さて、敷屋での生活を初めて二カ月が経ったわけですが、早々に実感したことがあります。それは、現段階では私は全くもって田舎暮らしに向いていない人間である(!)ということです。というのも、私の身体脳力は絶望的に低いようなのです。 身体「脳」力というのは誤字ではありません。一般に言う、学校のスポーツテストなどで測れる身体能力であれば、高いとは言えませんが人並み程度には備わっていると思いたい。じゃあ身体脳力って何なんだよ!?という話になりますよね。コレは「場面場面の状況に応じて実際に身体を駆使するための経験知、能力が脳髄にどれだけ染み込んでいるか」、その力を表す私の造語です(既存の語で、何か他に適切な言葉があれば教えてください!)。


    例えば、ここに鍬があるとします。この鍬を用いるのに、今までの私は掘る力の強弱をつけるぐらいのことしか出来ませんでした。畝の土を寄せたい、あるいは雑草を取るために土の表面をさらいたいという時に、要領を得た使い方が私には出来ない。というより、分からない。また、強く掘るにしても本当に効率のよい力の入れ方や身体に負荷がかからない力の入れ方が出来ないわけです。道具をうまく使いこなせていないということは、詰まる所、自分の体をうまく使いこなせていないということ。鍬を使うときに、私の意識に上がるのは精々二の腕くらいなものでした。二の腕に隣接する肘、その先にある指先、はたまた膝や足先のことなんて一々意識したことなんて今までなかった。

  そんな自分の身体の動かし方はふと気づいてみれば実にぎこちない。「人間には無数の関節があるのに、それを使いこなせないのはロボットと同じだ」と言われた時の衝撃は相当なものでしたが、そう言われてしまうのも無理はありませんでした。 こうした卑下(?)は多少の誇張の嫌いはあります。いくら間抜けな私でも、自分の能力の範囲でその都度その都度、場面に応じた身体の使い方はしてきたつもりですから。しかしながら、それでも、いざこちらで他人に指摘されたり、他人の使い方と自分の使い方を比較したりしてみると、その能力の範囲の狭さには本当に愕然とせざるをえませんでした。「びす」って何?「ばんせん」って何?という具合で、知識的な面でのキャパシティも元々低いのですが、それなりの経験さえ積んできていれば、もっと想像力を働かせて臨めているのだろうなと初見の道具に接するたびに虚しくなります。

  山の学校の用務員の三枝さん(どうご紹介するか悩ましい方ですが、とりあえずご自身の常日頃の自称に従っておきます)は「今まで(そういう方面での)頭を使ったことがないんだから仕方ない。まだ20代だからこれからのリハビリ、心がけ次第で人並みになるだろう」と言ってくれてはいるのですが、いかんせん先行きは見えません。20年も頭を塩づけしてきたツケの重さを毎日身にしみて感じています。


   ただし!これをもって、滞在2カ月弱ぽっちで早々に田舎生活にを投げたと捉えてもらっては困ります。頭の文に「現段階では」という一節をつけたのもその予防線。私としては、どんなに才能がなかろうと、努力さえすればいつかは一定の力がつく…と信じたい(苦笑)それに、へこむことの連続では確かにあるのですが、それだけではなく、試行錯誤の過程に遣り甲斐というか一種の楽しみを見出している自分がいることもまた確かです。幸い、三枝さんをはじめ、皆さん半ば呆れているでしょうが、それでも辛抱強く色々と教えてくださっています。私としても、1年後の更生(?)を信じて、めげずに頑張っていきたいです。


  ここで、自分の「不器用さ」の話をしたついでに「職業」について話しておきたい。ちょっと唐突に響くかもしれませんが、この私の「不器用さ」は今の社会における職業の在り方、人々の働き方と密接に関わりがあると思うのです。まず、話をするための下準備として、かなり荒っぽくではありますが、職業の歴史というものを概述したいと思います。


  遥か昔-どのくらいの時を遡ればいいか、てんで見当もつきませんが-個々人が食糧の生産から、自分の身ぐるみの調達まで、何から何まで全て自前でやっていた…そんな時代があったはずです。それが、段々日々の生活が煩雑になってきたか、集団内で階層が現れた関係か、まぁどうにかして、今まで自分がやってきたことをよそ様に任せるという事態が起こってくる。都市の成立や貨幣経済の浸透とともに、そのよそ様任せは職業として成立していき、次第に人々は職に携わることで食いぶちを得て暮らしていくということが恒常化していく。今では長年の変遷を経て、めまぐるしい数の職業が現出するに至っています。


  これがいったい何を意味するか?一般的に、一つの職業が成り立つということは、何かしらの形で人の手間が省かれるということです。こう書くと聞こえはいいですが、手間が省かれるということを別の観点から捉えなおせば、それは他者への依存を深めるということです。更に言い換えれば、何かしらの職業に頼れば頼るほど人は自分だけでできることが少なくなる、片輪者になっていくということです。昔のように分業が緩やかで、また各自が副業として色々なことに携わっていた時代ならまだよかったでしょう。しかし、時代は人一人に対し職業も一つという専業化の時代です。一つの職で食っていくには人より一歩、二歩抜きん出た技能が必要となりますから、それ以外のことに一々手を出すわけにはいかなくなる。どうしても各自の努力は専門分野の習熟に割かれることになる。こうして人の片輪化は止めどなく進んでいくこととなります。 実はこの「片輪」問題、漠然とではありますが、去年、ずっと私が考えてきたテーマでした。

   原発事故や沖縄の基地問題などを契機として、初めて真剣に中央集権の問題について考えるようになり、自分が生活する都市部の繁栄は地方にエネルギー、国防、食糧生産など、一切の面倒事を押しつけることで初めて成り立っていることを痛感するようになったのですが、それからほどなくして、都市で生活している自分はその環境にものの見事に順応している、ものの見事に片輪に育ってしまっているということにも気づきました。同時に物凄く情けなくなりました。

 人間の基本である衣食住において自分は一体どれほどのことをなしうるんだろう…、今この状態で就職なんてしたら、自分のこの不甲斐なさは一生涯に渡って決定づけられてしまうんじゃないか…、一時期ずっとそんなことを考えていました。こうして自分の不甲斐なさを巡ってアレコレしたことが、今回Think Shinguに応募する遠因にもなったと思います。


  もっとも、片輪という言い回しは一面的であり、それに対する情けないという私の思いは極めて普遍性を欠いたものかもしれない…とも感じていました。「片輪者」を肯定的に言いなおせば「専門家」です。ある一つの分野における自身の能力を一生涯に渡って研ぎ澄ましていくということは、それはそれで大いに価値のあること。私自身は方輪状態から抜け出したいと強く願うようになっていたのですが、社会全体の課題として考えた場合はどうなのか。客観的にこの現象を捉えた場合、これは果たして手を入れるべき事態なのかどうかは正直なところはっきりせずにいました(自分がしたいという思いだけで十分といえば十分なんですけどね)。ただ、ここ西敷屋に来て、脱片輪は今後の日本社会を占ううえで実はすごく重要な要素なんじゃないかな、と改めて感じ始めています。


  司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」がNHKでドラマ化された際に、これに絡めて、ジャーナリストの田原総一郎さんが「日本はこれからまだ坂の上の雲に向かって邁進すべきか、同じ場所に留まり続けるべきか、それとも坂をそろそろ下るべきか」という議論を興したことがありました。私はこの3択であれば下る派なのですが(下る派と一口に言っても、理由から程度まで色々あり、私も本来ならその辺のところを語るべきなのでしょうが、本筋から逸れるので割愛します)、そのためのアプローチとして人間が本来兼ね備えている全体性を取り戻すように努力することは一つのキーになりうるような気がするのです。今現在の分業の様相、地方と都市の関係は経済成長を志向する上では非常に合理的なシステムになっていると思います。

  合理的、というよりは経済成長とこうした要素は切っては離せない関係にあると言ったほうがいいかもしれません。とすると、無数の分業や都市一極集中の根本の原因となっている「片輪」を各自が解消するように努めれば、行き過ぎた成長志向・競走志向を是正して、程よい経済の着地点を見いだすことにつながっていくのではないか。…今はまだ「感じ始めている」という程度ですから、こんな単純でふわふわした物言いしか出来ないのですが、もう少し自分なりに突き詰めて考えていきたい主題です。


   ここでの生活では一々小難しいことは考えないように努めてはいるのですが、自分の今後の生き方、それに直結する社会のことについてはどうしても色々と思いを馳せざるをえません。今後も似たような話題(人によっては本当にどうでもいい話題でしょうが…)について断続的に書いていくことになると思いますが、どうかお付き合い願いたいと思います。


  実はこの活動報告書、6月の下旬に差し掛かる頃に書いています(苦笑)。梅雨だから、じっくり腰を落ち着けて執筆に取り組める日があるだろうと思っていたのですが、予想に反して外の作業が出来る中途半端な天候が続いたため、今日にいたるまで引きずってしまいました。ですから、もう5月と6月の境があやふやになり始めて、報告内容も具体的な活動の報告というよりはいかんせん抽象的なことが中心になってしまった感があります。6月分(これから7月までに間に合うように書きます!)に関しては余裕をもって書き上げられればいいのですが…。


  …今月はこんなところでしょうか。それではまた来月末にお会いしましょう。

2012年4月30日月曜日

4月分活動報告

 「Think Shingu」で採用され、今年1年、研究員(もどき)として「山の学校」でお世話になることになった大学3年生の田斉といいます。研究テーマは①「民俗研究」と②「①を用いてのエネルギー計画の策定」です。

  毎月末に活動報告という形で、日々の学習・研究の成果を文章で還元していくことになりました。研究と自称するには何だかあまりにも漠然としたテーマではありますが、全容に関しては月々の報告の中で徐々に輪郭を明らかに出来れば…と思っています。どうぞよろしくお願いします。  赴任(?)してから最初の報告ということで、まず、私が「Think Shingu」に応募するに至った簡単な経緯を述べておきたいと思います。


  私のゼミの先生はフリージャーナリストで「21世紀は再び農業の世紀になるだろうし、しなければならない」と常々語り、口先だけでなく実際に千葉県鴨川の里山に移り住んで、自ら「農」的生活を営んでいます。去年1年は授業や呑みの席で、時には先生のご自宅で、教えを受け、感化され、「地方」や「農」のことについて考えてきました。


  しかしながら「地方」も「農」も生まれてこの方20年間都市近郊で暮らしてきた私にとってはどちらも無縁な世界です。勉強の積み重ねで、両者がこれからの社会を考えるに辺りとりわけ重要なテーマであることは理解できてきたのですが、それが実感、実体験を伴わない頭だけの理解であることはなかなかもどかしいことでした。もどかしさに加え、そうした世界に対する純粋な好奇心がますます募り、年末頃から「地方での生活を(農業インターンなどの形でなく)ある程度まとまった期間で体験できないかな」という思いが沸々と湧いてくるようになりました。その思いが徐々に塊をなしてきて、2月ごろから実際に受け入れ先をネットで探していたところ「山の学校」との邂逅があった、というわけです。


  昨年2011年は干支で「辛卯」にあたる年でした。「卯」は扉を押し開く手の形を表した象形文字で、「辛」の字義とも相俟って、「辛卯」は今まで閉ざしていた重い扉が開き、新たな展望が開ける年とされていたらしいです。私は陰陽五行だとか風水だとかを特に信じているわけではありませんが、後付け的に見れば、2011年は確かに「辛卯」に相応しい1年であったように思います。日本にとってはもちろんのこと、私にとっても非常に大きな1年でした。今年1年は僅かに開けたその扉の先へ地道に歩を進める1年になるよう頑張りたいです。


  4月は研究に従事する、というよりはこちら西敷屋での生活に慣れる一月になった感があります。晴れの日は田んぼや畑のお手伝いをし、雨の日は読書をしたりテーブルを囲んで談笑したり…特別に用事がない日はこんな生活が基本です。正に「晴耕雨読」といったところでしょうか(尤も、近日、少々雨が多いので、パン用の夏ミカンの皮むきをはじめ、何かしらのお手伝いがあったりはします)。こう簡潔に書くと、なんとも味気ない生活なように映るかもしれませんが、私としてはとても充実した毎日を送れているという実感があります。時が経つのも驚くほど速いです。


  私はどちらかというと夜型の人間で、日を跨いでも起きていることが恒常化していました。こちらに来てからは10時くらい、遅くても11時頃には大体寝ています。最初の1週間くらいは皆さんの就寝時間に何となく合わせていたというのが正しいのですが、それ以降は、自然とその辺の時間帯に眠気が襲ってくるようになりました。大学に入ってから長らく動かしていなかった体を動かしているせいでしょうか。何にせよ、夜が深まらないうちに床に就き、仄かにさす朝日に感づいて目が覚めるという生活は、人間本来の基本に立ち戻っている気がして悪い気はしません。  当面の課題は料理です。…悲しいかな、料理・洗濯・家事・裁縫のほぼ全てを母に丸投げで生きてきた田斉は全くもって皆さんのお役に立てていません。精進を期したいところであります。  


  さて、これまでは日常の話ですが、この山の学校にはそれなりに頻繁に来客が来るようで、4月は日常と呼べるような日は実はそれほど多くはありませんでした。超人気ブロガーから放浪の旅人まで、それこそ多士済済な面々だったのですが、その中でも個人的に一番印象深かった訪問者は伊藤洋志さんという方でした。  伊藤さんはライター業を軸に、「月3万円の仕事(=ナリワイ)を、10個つくる」というコンセプトを掲げ、様々なプロジェクトの運営・企画を行っているという変な方です。今回も新宮市を舞台にした「田舎で仕事を作るワークショップ」開講するために敷屋にいらしていました。  「半農半X」なんていう比較的最近生まれたトレンドがありますが、あれは目指すべき理想像を謳ったものではあっても、具体的な方法論を示してくれるものではありません。その点、今回、伊藤さんがそうした生き方について自らの実体験を元にして、具体的、理論的にお話をされていたのは非常に刺激的でした。  地方における過疎・少子高齢化の進展、環境志向の高まり、1次産業就業人口の低減、目まぐるしい都市生活への疲れ、地方・都市間交流の増加、就職難etc、ざっと時代背景を概観しただけでも、「これでもか!」というくらい田舎生活、農的生活を推し進める要素は揃い踏みしています。しかし、現状として都市から地方への人の流れは非常に弱いと言わざるをえないようです。なぜでしょうか?


  一つには間違いなくお金の問題が挙げられるでしょう。「憧れはあるけど、生活が成り立たなければ…」という懸念は誰もが当然抱くことです。また、それと同時に「地方移住には予め相応の経済的基盤を確保しておくことが不可欠である」などといった脅し(に殆ど近い)文句はどの地方に移住するにあたってもついて回っているようにみえます。Iターン者がそうした要求を満たす手段としては、今までは学校や市役所に職を求めるか、今流行り(?)の「六次産業化」の波に乗って起業するか、というくらいの選択肢しか今までは可視化されてきませんでした。就職は未だしも起業という手段は普通の人にはなかなか現実味が薄い手段です。そして何より、単に自然豊かな環境に身を移したいという願いであったり、ビジネスチャンスへの野心であったり、あるいは地域振興への志であったりといったことは立派な移住の動機たりえるでしょうが、これらだけでは、どうも私には全ての人々のニーズが掬いきれるとは思えないのです


  私が地方や農に興味を抱いた大きな理由の1つに「今現在、当り前のように見做されているライフスタイル」に対する疑問がありました。独りよがりかもしれませんが、私と似たような切り口で地方移住に関心をもっている人は決して少なくないように思います。


  公務員は雇われの身。起業にしても活動拠点と利用する資源とが地方にシフトするだけのことで働き方の質は概観した限りその殆どが都会のそれと大差ない感がある。つまり、今までは、「「農」を軸にした生活を組み立てたい」「ほどほどに充足した人生でよいから、毎日ガツガツに働くような暮らしは止めにしたい」「他人に律せられるのではなく、主体的な人生を送りたい。自分の時間は自分で管理したい」などと考えてきた人には受け皿が用意されてこなかったのです(「受け皿がないかのように思われていた」といったほうが正確でしょうか)。伊藤さんの「ナリワイ」という考え・生き方はこうした現状に風穴を空ける可能性を大いに秘めていると思います。今のところ「ナリワイ」は起業と同じ、あるいはそれ以上に狭隘な道ではありますが、実践する人が増えていけば魅力的かつ普遍的な人生の選択肢として人々に捉えられる時が来るかもしれません。願わくば、ゆくゆくは私もそうした実践者の1人になりたい。自分自身の「ナリワイ」を見つけるということは今回の滞在の裏テーマになるのかな、と個人的には感じているところです。


 今月一番大きかった出来事は、田んぼの一角を貸していただけることになったことです。「作物を一から自分の手で育て上げる」ということはこちらに来る前から最も楽しみにしてきたことの1つでした。田んぼや畑のお手伝いをさせていただこうとは前々から思っていたものの、耕地をそのまま任せていただけるとはつゆにも思っていなかったため喜びもひとしおです。実際に田んぼ作りを通して感じたこと、考えたことについては来月にまとめて報告したいと思います。


    …書いてきた文章を振り返ってみますと、これでは「Think Shingu研究員」というよりは「いなか研修生」の報告書ですね(汗)正直言って、4月中はまともな研究活動はほぼ0でした。今月だけではなく恐らく5、6月もこれに準じた状況になってしまうのではないかと思います。ただ、それでは、「地方の生活体験に重点を置きたい」というワガママを受け入れてもらったうえでの滞在であることを加味しても面目が立ちません。ですから、わざわざ報告するほどのことではないのですが、けじめとして、申し訳程度に研究に関連することについても述べることをお許しください。


  私は文学部の日本史コースに所属しており、専ら文献史学を中心に学んできました。民俗学については関連領域であり、ずぶの素人というわけではないのですけども、専門的な知識があるわけでもありません。そのため、走りながら学ぶ必要があり、空き時間(主に夜間か早朝)を見つけて専門書を読みこんでいます。元々本の虫ではあるのですが、せっかく今まで生きてきた空間とは全く別の場所に身を置いているわけですから、いつでもどこでも出来る読書にあまり時間を割くべきではないのだろうなという思いもあり心境としては複雑です。いずれにせよ文献から知識を得る段階は一刻も早く卒業したいところです。  地元の方々とは立ち話程度ですが、僅かながらも交流が芽生えつつあります。調査票をこさえて「少しこの辺の民俗についてお話を聞かせていただきたいのですが」と仰々しくお宅訪問する王道的なやり方をとろうかとも一時は考えたのですが、せっかく1年という長期にわたって居させてもらうわけですので、焦らず自然な形で関係を作りつつ、適宜お話を聞けていけたらと今は思っています。


  また、今回の滞在の直接的なテーマにするつもりはないのですが、地域信仰について面白い発見がいくつかありました。嶋津という新宮市(旧熊野川町)の飛び地があるのですが、「山の学校」代表の柴田さんの用事に便乗して、そこの区長である平野さんのお宅に伺ったときのことです。そこで意外だったのが上醍醐寺という京都の名刹が発した五大力菩薩像のお札が玄関口に貼ってあった事です。相応の年代物でした。洪水を機に現在地に嶋津の集落が移った1852年から、それほど時代がくだらないものだと推測します。これと併せて安産祈願のための本宮大社の牛王宝印も神棚に飾ってあったのですが、こちらは紙に記された年代からいってここ数年内に置かれたものでした。


  熊野と聞くと、すぐさま熊野三山や蟻の熊野詣を連想してしまいそうなものですが、この一件にも何となく示唆されているように、地域の土着的な信仰要素に熊野三山は大した位置を占めず周縁をただ漂っているに過ぎないのではないかと感じています。地域の方にさりげなく話を伺っても大したプレゼンスを見出すことができませんし、今月にあった正遷座百二十年大祭にしてみても地域との連携を欠いた非常にチグハグしたものだったようです。「聖地熊野」のイメージに踊らされて考察を進めることの危うさを感じました。


  一方で熊野川町の各集落には大津荷の国尊仏、敷屋の天神様、山手の子安地蔵をはじめとして昔から大事にされてきた神様仏様がいらっしゃると聞いています。信仰が現在になお生き続けているか、と問われれば、こちらとて心もとないものがありますが、少なくとも一昔前においては、人々の心の拠り所となっていたものではないでしょうか。ただ、まだ現段階では何の根拠もない憶測に過ぎません。滞在中にそれぞれの集落ごとのエピソードが拾えたら面白そうです。


  …今月はこんなところでしょうか。それでは、また来月末にお会いしましょう。 [蛇足かもしれません]