2013年2月28日木曜日

2月分活動報告


2月の頭、2日と3日に、熊野川翔学米特別企画と号して、現役大学生の講義企画を実施しました。「何だそれ?」という話ですが、「翔学米コンテストを実施します!」と告知して、募集をかけて、応募をただただ待つというだけでは味気ない。せっかくだから、海外をフィールドに活躍している現役大学生を呼んで地元の中高生と交流する機会を設けよう!…ということで、昨年末に思い立った企画です。
2日土曜日にFacebookを駆使した世界一周の体験者で、現在インバウンド観光を軸にした生き方を模索中の青木優さん。3日日曜日に、早稲田の先輩で、五大陸版ドラゴン桜プロジェクト「e-Education」の代表として大活躍中の税所篤快さんをそれぞれお呼びしました。


実は講師の2人とも面識がなく()、青木さんとはfacebookで、税所さんとはゼミの先輩に連絡先を聞いてメールでお伺いを立てたのですが、両方とも即快諾してくれたことには驚きました。
で、本企画告知の傍ら、この講義企画についても市内で募集をかけにかけまくったのですが、中高生の総参加人数は6人。更にその6人のうち、4人は柴田さんの家庭教師の教え子+その友達3人が芋づる式に参加してくれたもので、実質、自分の広報によりやってきてくれた中高生は2人だけということになります。


好意で広報を手伝ってくれた方がいたのですが、その方曰く「(会場の)敷屋は遠い。(息子・娘)を送っていくにしても途中の道路、路面凍結が心配」と仰った保護者さんがいたとか、いないとか。新宮市街の一部の人にとっては旧熊野川町一帯って未だに未知のエリアだったりするのだろうか、と思うとともに、日本の道路で事故ることを心配してたら、とてもじゃないけど、息子・娘を未成年で海外に遣るなんて思わんだろうなぁ、と(苦笑)。先月、今月と、自転車で足しげく新宮⇔日足・敷屋間を通い詰めている身としては、この話を聞いて何とも言えない気分になりました。私の広報の不手際も多々あったのは厳然たる事実ですので、それを棚に上げてものを言うのもどうかと思うのですが、それにしてもこの結果は純粋にただただショックです。自分の感覚と地方の中高生の感覚のズレは相当ある、やっぱり色んな子と実際に会って、色々と話してみんことには到底分かるもんではないなぁと。


ただ、集まってくれた中高生の人数こそ、それほど多くはなかったものの、近所の佐々木さんなどの精力的な()宣伝のおかげで、子ども達の倍近くの近隣の方々にお越しいただけることとなりました。ですから、体裁としてはそれなりのものになりましたし、肝心の内容に関してもとても素晴らしいものとなりました。


まず1日目の青木さんですが、彼の世界一周時の体験談を基軸に、そこから学んだこと、以降の活動、大学卒業後に取組みたいことを織り交ぜて50分ほどプレゼンテーションしていただいたのが前半。後半1時間ちょっとは質疑を兼ねたフリートークにお付き合い願いました。青木さんは「人生は今住んでいる場所だけではない」、「原体験にこそ価値がある」という2つのメッセージをまとめの際に発していましたが、私も全く同じ思いです。中学、高校の段階では、ピンと来なかったかもしれませんが、今すぐではなくとも、いつか潜在的にでも、このメッセージが彼らのために役立ってくれればな、と思います。


2日目の税所さんのプレゼン力は圧巻でした。絶えることなく聴衆の笑いを誘いながら、自分の活動の髄は、漏らさずしっかり聞かせる。80分という大学の講義並みの尺のプレゼンだったのですが、終始全く飽きの来させない内容でした。前半の熱気そのままに、後半のフリートークの時間も会話の応酬は絶えることなく、澱みなく時間が流れ、あっという間に予定の時刻を過ぎてしまいました。中高生はもちろんのこと、大人の方々にとっても新鮮で印象的な半日になったようです。税所さんは僕ら世代では群を抜いたスーパースターなのですが、参加者にはその理由が十二分に分かってもらえたのではないでしょうか。


私が今回、少人数制で、かつ市街の人から見ればいささか不便であろう敷屋に会場を設定したのには、一応の理由があります(※当初は高校を借りようとしていたので後付けといえば後付けの理由にはなります)。大人数で、壇上と聴衆の境がある講演会は、聞いた当初こそ「勉強になった」「頑張るぞ」と一念発起するものの、経験則上その一念の多くは一日限りのもの、3日もすればきれいすっかり忘れてしまうというものが殆どな気がしています。だから、私は金と時間を使って講演に行くくらいなら、BOOKOFFなりAmazonなりで、その講師の著書(著書がある人であれば)を買ってその一日で読み切った方がよっぽど自分のためになるんじゃないか、と基本的には思っています。


ただ、じゃあ「ある分野の著名人・専門家を呼んで話を聞く」という形式が全く無意味だと思っているかというとそういう訳ではありません。生身の著者が来てくれれば、本のような一方的な情報発信ではなく、聴衆と双方向で交流する場を創ることができる可能性があります。著者からの問題提起をお互いの会話を通して深堀りしていくことができる。


また、先ほど否定した「一念発起」効果についても、ただ話を聞いた場合と、実際に話者と話が出来た場合とでは全く効力が違う。こういう僕なりの問題意識を持って、「人を呼んで話をしてもらおう」というイベントを考えた場合、当然のことながら、少人数制でゲストと参加者の壁を取っ払って行うという条件は必須なわけです。その条件に旧敷屋小はぴたりと合致しますし、他の会場と違って時間制限のようなものにも一々気を遣わずに済みます。


今回は司会の自分の力量不足で、十分に場と機会を活かせなかったという反省はあります。ただ、その一方で、「これはやる価値があるな」という手ごたえ、自分の狙いの正しさもある程度感じられた2日間でもありました。今回は単発でのイベントになりましたが、かつての「何でも相談塾」のように、東京に帰っても何らかの形で断続して大学生×中高生(+地元の人)イベントが出来たらな、と思います。
また、僕は講演だったり、対談だったりのイベントに出向くときは、必ずその登壇者について下調べしてから行きますが、他人に関しても程度の差はあれそうしてくるだろうと無意識的に思っていた節があります。でも、今回、何にも知らずに興味本位で来てくれて、かつ少なからぬ刺激を受けたという方が何人もいらっしゃいました。そういった意味で、今まで未知の分野だった人と人を繋ぐことも、こういうイベントの意義だったりするのかなぁと漠然と考えたりもしました。


先月に引き続き、今月は新宮での活動が多かったです。特筆すべき出来事としては、22日、23日と市街で翔学米の企画説明会を実施した他、先月の報告書でもチラッと触れた中高生向けの大学受験説明会でゲスト()として喋ってきました。その説明会について二三ほど。

僕は添え物程度に専ら高校生当時の学生生活と受験勉強の取り組み方について喋っただけですが、全体は新宮のような地方都市では少し珍しいだろうな、という熱の入れ具合で、東京の大手予備校ばりに準ずるくらい手厚い受験入門イベントとなっていました。このときのことを巡って、数日経った今でも、悶々としています。


紀南の子の大学受験のスタンスを又聞きながら聞いていると、些か平和すぎるというか、呑気すぎるという気は確かにします。どうせ受験するのであれば、もうちっと本腰を入れて取り組んだ方がよかろう…とは思う。


ただ、当日の話にもあった「高卒と大卒とではここまで生涯年収が違う。大学受験は機会の平等が開かれている最後の機会。だから、大いに頑張ってくれ」という理由で-厳密に言えば、そうした理由「だけ」で-今の時代の中高生に大学受験を薦めるというのは少し違う気がするのです。
今月は地元育ちの方々とIターン者とで「真の豊かさとは何か」なんて大仰な議題で話し合う何とも珍奇な集会もあって、その時の一つの答えとして「11人がささやかな生き甲斐を持って自己肯定して生きていければよい」というような、そんなようなニュアンスの答えがありました。僕もこれに何ら付け加えるところはありません。


子ども達がそれぞれのやり方で、やりがいを見つけ、自己肯定して生きていけるように、その探求を状況に応じてサポートしてあげるのがいわゆる「教育」という分野の役割であり、先に歩んでいる「先輩」、「大人」の一つの役目であろうかと思います(念のため断っておくと「自己肯定して生きること」に必ずしも「やりがいを見つけること」は必要でないということは11月の報告書でphaさんや勝山さんについて2,3記した通りです)


中高生がその辺のことを模索するに辺り、大学、その中でも名門と言われる大学に進学することを薦めることはあながち間違いとはいえないと思います。しかし、その薦めが高度経済成長期のパラダイムに基づいてなされるのはどうなのか。時代錯誤の薦めで、大学に進学する意欲を駆り立てられて、入学した子の、その後の歩みは果たしてどうなるのか。都市と地方、あるいは学校によって、あるいは家庭によって、程度差はあるでしょうが、今の日本の混迷の一因は、大人の子どもに対する「誤誘導」にあるんじゃなかろうか。…そんなことの周縁をウダウダ彷徨って、少し鬱然とした気持ちになっています。
どういう内容でどういう方法で、今の現状は開けるのか。その辺の整理は僕にしても未だきちんとついていません。今回取り組んでいる「熊野川翔学米」もある意味ではその模索の一つと言いうるかもしれない。ただ、最近、悶々の中で、おぼろげながら新しく2つ取り組みたいことが出来てきました。


1つは今の日本を、中高生を取り巻く「現状」をある程度正しく伝えてあげたいということです。現状認識を誤ると人によってはそこからの歩みに致命的な誤差が生まれることがありえます。諸々の判断の大本になる「現状」に関する情報を、一方では、ある程度自立的に学ぶ力を身につけて欲しいという願いがありつつも、もう一方では、ある程度はこちらから伝えてあげたいという気持ちがあります自分を取り巻く社会の現状をある程度理解してから、そこから、どんな道を歩んでいくかを決めるのは個々人の裁量次第です。


もう1つは、日本にも多様な歩み方をしている人がいるということ。そして、そうした人々が歩んできた具体的な道筋を知らせてあげたいということです。


十人十色の人生の歩み方があると建前は言いつつ、数に限りある職業の陳列・羅列でしか子どもたちに針路を示しえなかったのが今までの「進路教育」でした。職業だけに重点を置くと、人生の幅はものすごく狭いように感じてしまう。そうではなく、一人ひとりが自分ならではの「価値観」や「目標」を基軸として、自分なりの進度、自分なりの方法でそれを体現、実現していくことが大事なんだということ。「職に就く」ということはそのための一つの手段に過ぎないんだということを中高生にはなるべく早い段階で気づいて欲しいと思っています。これを理解した前と後とでは見える光景が全く違ってくると思うのです。その気づきのために。あるいは、その気づきのあとに、自分なりの人生戦略を練り上げていく一助としてもらうために、一般的な日本人の平均値から外れた、型にはまらない生き方を実践している人を紹介すると共に、その人の歩みの過程を、ある程度詳しく可視化して紹介することができないかな、と考えています。


まだかなり曖昧模糊とした状態ですが、この2つを実現するためには、情報を詰め込んで体系的に伝えられるような媒体が必要となる。それには、何らかの冊子を、自分なりに実際に纏め上げてみるのが一番なのかなぁ、というところまで今行き着いています。前者は「中高生向け」という限定の下でなら一つの雑誌を創れるだろうし、後者であれば10人なり、50人なり、100人なりのインタビュー集を編める。仮にも自分は元マスコミ志望で、ナリワイ的な生き方をするにあたってもジャーナリズムを一つの軸としてやれることならやっていきたいと思っているわけですから、あちらに帰ってから新宮に舞い戻ってくるまでの期間に実践の一つや二つをやってきても全くおかしくはないし、むしろ、将来のことを考えればそうして当然なんだろうなという気もします。復学後の宿題です。


それと、全くもって蛇足なことながら、不肖田斉は今月18日で21回目の誕生日を迎えました。木琴演奏&トトロコスプレ&ペンギンデコレーションケーキの3点セットという何とも身に余る祝い方をしていただいて、恐縮しきりでした。成人最初の1年をここ新宮の地で踏めてよかったなぁと改めてしみじみ感じます(盛大に祝ってもらえたというだけではもちろんないですよ!)。早いもので、こちらでの休学も残すところあと1ヵ月となりました。本当にあっという間だった。来月、東京に戻るのだという実感が未だにいまいち湧きません。


…今月はこんなところでしょうか。それではまた来月にお会いしましょう。

2013年1月31日木曜日

1月分活動報告



あけましておめでとうございます。正月は結局、当初の予定よりやや日にちが延びて、6日の朝まで実家に滞在してました。専ら帰省期間は家でゆったりしたり、高校・大学の同期と飲み食いしておりました。おかげで英気は十分に養えたかと思います。三が日には親戚の面々が一堂に会す機会があり、内心何を言われるかビクビクしていたのですが、特に事が荒立つことなく(むしろ穏便、順風に)済んでホッとしました。ただ、あと1年間休学したい、卒業後は新宮に住みたいという明確な意思表示はその場では出来ず(正月くらい平穏に過ごしたかったので…)一波乱、二波乱この先に待っていそうです。いやはや…。
7日の夜、新宮に戻ってきてからは、2週間弱ほど、しみーさんの家に滞在させてもらいました。市街の中高生へ翔学米のコンテスト企画諸々を告知するための下準備と実際の告知のためです。


ただただ自省するしかないのですが、期限付きの事業+他人との協力をある程度仰ぐ必要が出てくる事業では、やはりある程度計画的に具体的な日程を考えて行動することは必要不可欠なことだと痛感しました。市内の中高生に向けて配るビラや街頭告知用のポスターは新宮に舞い戻った時点では完成していませんでした。風呂敷残業()で帰省中に仕上げてくる気満々だったのですが、しみーさん邸の共用PCにしか入っていないフォントをイラストレーターで使ってしまっていたりして、結局あまり進めることはできず。新宮に戻っての最初の数日間はずっとその完成作業に付きっきりでした。慣れた人なら半日足らずで終わらせてしまうような作業でも、Adobeのイラレを今まで全く使ったことのない、正真正銘のずぶの素人ではなかなかてこずるものです。手に負いかねる部分もやはり出てきます。まだ、その時は大阪に帰省中で、ゆったりしていたかったであろうしみーさんにはなかなか煩わしかったでしょうが、ちょくちょく質問やお願いを繰り返すことになってしまいました。そんなこんなで、チラシを配り始められたのは9日、ポスターの掲示開始は15日にそれぞれなりはしましたが、おかげさまで出来栄えとしてはそこまで遜色のないものを作り上げることができたのではないかな、と思います。


ただ、単に出来ただけでは何にもならず、チラシもポスターも実際に人に配ったり、人目の付くところに置いてもらうことで初めて価値が生まれてきます。今までアルバイトは色々と経験して来ましたが、その中でも街頭のビラ配りは最も不向きだと感じたものの一つ。もっと言ってしまえば、やってて一番なぁなぁ、嫌々になったものの一つでした(苦笑)。僕の容貌からして、不審者に見間違われるんじゃないかという心配もある(苦笑)。そもそも、新宮の子らは、チラシを配られるという経験に慣れてないだろうし…。…しかし、まぁこの期に及んで四の五の言ってはいられません。毎朝毎夕、校門前や駅前など学生の往来が盛んなところにたってビラ配りを続けていました。


配布率自体は思ったよりも良好で、通りかかった大体の生徒さんに受け取ってもらえました(8時を過ぎると皆ドバァっと一気に登校してくるので、その人数の多さに対して渡し切れないというケースは多々ありました)。反射的にではあるのでしょうが、少なからぬ子が「ありがとうございます」なんて言ってくれるので、こちらとしては面食らった感すらあります。ポスターにしてみても、ダメ元で聞いてみると、案外貼ってくれるもので驚きました。特に新宮のおばちゃん連は非常に優しい。それと、迷惑がかかるかもしれないので、どことは言いませんが、大手チェーンの系列でも貼ってくれる所もあったりしました。「民間の方の掲示物を一度貼ってしまうと、どれが貼ってよくて、どれがダメでという線引きが難しくなってしまいまして…。学校関係、行政関係しか基本的にはお引き受けできないんです」というのが断りの常套文句です。まぁ理屈は通ってますし、こちらもダメ元で伺ってはいるので、断られても別に何とも思わないのですが、やはり貼ってもらえると嬉しいもの。多少公共性のある取組みということもあるのでしょうが、地方ならではの個人裁量、判断の緩さというのも些か関係してくるんだろうなぁと思ったりもしました。


ただし、繰り返しにはなりますが、撒けた数は大して問題ではなく、潜在的に海外に興味を持っている子ども達にどれだけ届けられているかが問題になります。

2週間ほどの市街での活動で、チラシは一応各校一定数配れ、ポスターも要所要所に貼らせてもらえたつもりではいますが、今のところ特に目立った反応はありません。「渡航計画を各自で考えて、それを提出してください」という形式のものであるので、撒いて即応募が来るという性質のものではないと分かってはいるのですが、それでもやはりちょっと不安なところはあります。どれだけの数の、どんな内容の応募を、どんな子がしてくるのか…。向こう12か月は不安と期待半々で待つことになるでしょうが、焦らず待ちたいところではあります。


熊野新聞をはじめとした地元紙の皆さんにはちょくちょく活動を取り上げていただいてるとはいえ、まともな感性の持ち主なら、ポッと出の余所者が「海外往復渡航費を全額援助」などと言っていたら、まずは怪しむのがまぁ当然のところなのではないかなぁと思います。特に、こういう突飛な出来ごとに慣れてない人は尚更なのではないか、と。多分先に述べた通学路でのチラシ配りにしても、僕のようなパッとしない、ずぼらな格好の人間が配っていたら(極力気は回してはいますが)マイナス要素こそあれ、それがプラスに働くことはまずないでしょう(苦笑)


まぁ、ちょっと-思考で考えすぎかもしれません。直接的にも間接的にも市内での評判は聞いたことがないので、杞憂に過ぎぬことを祈りますが、学生や保護者、あるいは教員の方に数人知り合いがいれば、もっとすんなり浸透させる手立てがあるろうにな、と思わざるをえません。
最初の数年度、この初年度や学生時代ぐらいは費用・時間を度外視して、企画・宣伝・広報に尽力できるでしょうが、実際に移り住んでからは、今のように何から何までガッツリ手間をかけることはなかなか難しくなるでしょう。「翔学米」は大掛かりに組織化せずとも、一個人が出来る範囲で誰もが無理せず取り組める企画として創りあげました。

米をある程度余剰に生産できる農家が1人や2人いて、購入者がいれば一応の形にはなります。包装・発送についてもまだ節約、手間削減の余地はありますし、広報にしてみても金をかけられなければかけられないでやる道は十分にある。もし、不作の場合、あるいは米の収量は十分にあっても売上が十分でなかった場合、また翔学米外の事情で恐らくその年は余裕がないという場合…そういう年は企画を実施できないというケースが仮に出てこなくともよいと思っています。


企画維持すること自体が目的化してしまったり、規模を拡大しすぎて外部に依存しなくては立ち行かなくなる状況になることは絶対に避けたいです。

しかしながら、「独力でやっていける体制を整えておくこと」は極めて大事ですが、それは「独力でやらねばならない」ということを必ずしも意味しません。むしろ、企画をより充実した形で運営していくためには、人の力を借りられる部分に関しては大いにお借りしたいと考えています。
数年間継続して企画に取組んでいく中で「あぁ翔学米か、今年もやってんのね」と思ってもらえるだけの認知度と信頼感を築いていって、その中で協力してくれる学生や保護者、教職員の方々も現れてくれたらな、と、今夢想しています。5年、10年とかかることでしょうが、そんな状態になったときには、翔学米に限らず、皆さんがもっと有意で多彩な活動を市内で展開できるようになっていることでしょう。
そうそう。活動中、お会いした某塾の先生に、大学の受験説明会をしたいから喋ってほしい。また、東京に戻った後、現役大学生として塾報にコラムを書いてほしいというような提案を受けたことがありました。それを実際にお引きするかどうかはさておいて、今までになかった視点で「ハッ」とさせられる思いがしました。もちろん特定の塾だけ、特定の塾の生徒さんだけと付き合いを持つということになってしまってはつまりませんが、アプローチ方法はもっと柔軟に考えなければなりませんね。

そんなこんなで敷屋に戻ってこれたのは1月の第4週のことでした。その時期に、2週間ほどの期間での滞在希望者がいたのですが、タイミングが悪く、その方以外、皆、敷屋から出払ってしまうという事態になってしまいました。「事態が事態でもあるし、一度戻るか」ということでようやく帰ってきたわけです。

今回の訪問者は京都のハードコア系バンドのベースマンさんで、phaさんのtwitterを見たことがきっかけで来られたとのこと。僕はその手の音楽には疎いのですが、バンド名を聞いて検索をかけたところwikiにも載っていたので、その道では有名なバンドなのではないかと思います。本当にいろんな方がいらっしゃいます。

本来、客人のお世話のために戻ってきたはずなのですが、料理の上手い彼に逆にお世話されっぱなしです。簡単なお料理もいくつか教えてもらいました。ホストとゲストの立場が完全に逆転していて申し訳ない気もしますが、すっかり甘えてしまっています(苦笑)

…今月はこんなところでしょうか。それではまた来月にお会いしましょう。