2012年4月30日月曜日

4月分活動報告

 「Think Shingu」で採用され、今年1年、研究員(もどき)として「山の学校」でお世話になることになった大学3年生の田斉といいます。研究テーマは①「民俗研究」と②「①を用いてのエネルギー計画の策定」です。

  毎月末に活動報告という形で、日々の学習・研究の成果を文章で還元していくことになりました。研究と自称するには何だかあまりにも漠然としたテーマではありますが、全容に関しては月々の報告の中で徐々に輪郭を明らかに出来れば…と思っています。どうぞよろしくお願いします。  赴任(?)してから最初の報告ということで、まず、私が「Think Shingu」に応募するに至った簡単な経緯を述べておきたいと思います。


  私のゼミの先生はフリージャーナリストで「21世紀は再び農業の世紀になるだろうし、しなければならない」と常々語り、口先だけでなく実際に千葉県鴨川の里山に移り住んで、自ら「農」的生活を営んでいます。去年1年は授業や呑みの席で、時には先生のご自宅で、教えを受け、感化され、「地方」や「農」のことについて考えてきました。


  しかしながら「地方」も「農」も生まれてこの方20年間都市近郊で暮らしてきた私にとってはどちらも無縁な世界です。勉強の積み重ねで、両者がこれからの社会を考えるに辺りとりわけ重要なテーマであることは理解できてきたのですが、それが実感、実体験を伴わない頭だけの理解であることはなかなかもどかしいことでした。もどかしさに加え、そうした世界に対する純粋な好奇心がますます募り、年末頃から「地方での生活を(農業インターンなどの形でなく)ある程度まとまった期間で体験できないかな」という思いが沸々と湧いてくるようになりました。その思いが徐々に塊をなしてきて、2月ごろから実際に受け入れ先をネットで探していたところ「山の学校」との邂逅があった、というわけです。


  昨年2011年は干支で「辛卯」にあたる年でした。「卯」は扉を押し開く手の形を表した象形文字で、「辛」の字義とも相俟って、「辛卯」は今まで閉ざしていた重い扉が開き、新たな展望が開ける年とされていたらしいです。私は陰陽五行だとか風水だとかを特に信じているわけではありませんが、後付け的に見れば、2011年は確かに「辛卯」に相応しい1年であったように思います。日本にとってはもちろんのこと、私にとっても非常に大きな1年でした。今年1年は僅かに開けたその扉の先へ地道に歩を進める1年になるよう頑張りたいです。


  4月は研究に従事する、というよりはこちら西敷屋での生活に慣れる一月になった感があります。晴れの日は田んぼや畑のお手伝いをし、雨の日は読書をしたりテーブルを囲んで談笑したり…特別に用事がない日はこんな生活が基本です。正に「晴耕雨読」といったところでしょうか(尤も、近日、少々雨が多いので、パン用の夏ミカンの皮むきをはじめ、何かしらのお手伝いがあったりはします)。こう簡潔に書くと、なんとも味気ない生活なように映るかもしれませんが、私としてはとても充実した毎日を送れているという実感があります。時が経つのも驚くほど速いです。


  私はどちらかというと夜型の人間で、日を跨いでも起きていることが恒常化していました。こちらに来てからは10時くらい、遅くても11時頃には大体寝ています。最初の1週間くらいは皆さんの就寝時間に何となく合わせていたというのが正しいのですが、それ以降は、自然とその辺の時間帯に眠気が襲ってくるようになりました。大学に入ってから長らく動かしていなかった体を動かしているせいでしょうか。何にせよ、夜が深まらないうちに床に就き、仄かにさす朝日に感づいて目が覚めるという生活は、人間本来の基本に立ち戻っている気がして悪い気はしません。  当面の課題は料理です。…悲しいかな、料理・洗濯・家事・裁縫のほぼ全てを母に丸投げで生きてきた田斉は全くもって皆さんのお役に立てていません。精進を期したいところであります。  


  さて、これまでは日常の話ですが、この山の学校にはそれなりに頻繁に来客が来るようで、4月は日常と呼べるような日は実はそれほど多くはありませんでした。超人気ブロガーから放浪の旅人まで、それこそ多士済済な面々だったのですが、その中でも個人的に一番印象深かった訪問者は伊藤洋志さんという方でした。  伊藤さんはライター業を軸に、「月3万円の仕事(=ナリワイ)を、10個つくる」というコンセプトを掲げ、様々なプロジェクトの運営・企画を行っているという変な方です。今回も新宮市を舞台にした「田舎で仕事を作るワークショップ」開講するために敷屋にいらしていました。  「半農半X」なんていう比較的最近生まれたトレンドがありますが、あれは目指すべき理想像を謳ったものではあっても、具体的な方法論を示してくれるものではありません。その点、今回、伊藤さんがそうした生き方について自らの実体験を元にして、具体的、理論的にお話をされていたのは非常に刺激的でした。  地方における過疎・少子高齢化の進展、環境志向の高まり、1次産業就業人口の低減、目まぐるしい都市生活への疲れ、地方・都市間交流の増加、就職難etc、ざっと時代背景を概観しただけでも、「これでもか!」というくらい田舎生活、農的生活を推し進める要素は揃い踏みしています。しかし、現状として都市から地方への人の流れは非常に弱いと言わざるをえないようです。なぜでしょうか?


  一つには間違いなくお金の問題が挙げられるでしょう。「憧れはあるけど、生活が成り立たなければ…」という懸念は誰もが当然抱くことです。また、それと同時に「地方移住には予め相応の経済的基盤を確保しておくことが不可欠である」などといった脅し(に殆ど近い)文句はどの地方に移住するにあたってもついて回っているようにみえます。Iターン者がそうした要求を満たす手段としては、今までは学校や市役所に職を求めるか、今流行り(?)の「六次産業化」の波に乗って起業するか、というくらいの選択肢しか今までは可視化されてきませんでした。就職は未だしも起業という手段は普通の人にはなかなか現実味が薄い手段です。そして何より、単に自然豊かな環境に身を移したいという願いであったり、ビジネスチャンスへの野心であったり、あるいは地域振興への志であったりといったことは立派な移住の動機たりえるでしょうが、これらだけでは、どうも私には全ての人々のニーズが掬いきれるとは思えないのです


  私が地方や農に興味を抱いた大きな理由の1つに「今現在、当り前のように見做されているライフスタイル」に対する疑問がありました。独りよがりかもしれませんが、私と似たような切り口で地方移住に関心をもっている人は決して少なくないように思います。


  公務員は雇われの身。起業にしても活動拠点と利用する資源とが地方にシフトするだけのことで働き方の質は概観した限りその殆どが都会のそれと大差ない感がある。つまり、今までは、「「農」を軸にした生活を組み立てたい」「ほどほどに充足した人生でよいから、毎日ガツガツに働くような暮らしは止めにしたい」「他人に律せられるのではなく、主体的な人生を送りたい。自分の時間は自分で管理したい」などと考えてきた人には受け皿が用意されてこなかったのです(「受け皿がないかのように思われていた」といったほうが正確でしょうか)。伊藤さんの「ナリワイ」という考え・生き方はこうした現状に風穴を空ける可能性を大いに秘めていると思います。今のところ「ナリワイ」は起業と同じ、あるいはそれ以上に狭隘な道ではありますが、実践する人が増えていけば魅力的かつ普遍的な人生の選択肢として人々に捉えられる時が来るかもしれません。願わくば、ゆくゆくは私もそうした実践者の1人になりたい。自分自身の「ナリワイ」を見つけるということは今回の滞在の裏テーマになるのかな、と個人的には感じているところです。


 今月一番大きかった出来事は、田んぼの一角を貸していただけることになったことです。「作物を一から自分の手で育て上げる」ということはこちらに来る前から最も楽しみにしてきたことの1つでした。田んぼや畑のお手伝いをさせていただこうとは前々から思っていたものの、耕地をそのまま任せていただけるとはつゆにも思っていなかったため喜びもひとしおです。実際に田んぼ作りを通して感じたこと、考えたことについては来月にまとめて報告したいと思います。


    …書いてきた文章を振り返ってみますと、これでは「Think Shingu研究員」というよりは「いなか研修生」の報告書ですね(汗)正直言って、4月中はまともな研究活動はほぼ0でした。今月だけではなく恐らく5、6月もこれに準じた状況になってしまうのではないかと思います。ただ、それでは、「地方の生活体験に重点を置きたい」というワガママを受け入れてもらったうえでの滞在であることを加味しても面目が立ちません。ですから、わざわざ報告するほどのことではないのですが、けじめとして、申し訳程度に研究に関連することについても述べることをお許しください。


  私は文学部の日本史コースに所属しており、専ら文献史学を中心に学んできました。民俗学については関連領域であり、ずぶの素人というわけではないのですけども、専門的な知識があるわけでもありません。そのため、走りながら学ぶ必要があり、空き時間(主に夜間か早朝)を見つけて専門書を読みこんでいます。元々本の虫ではあるのですが、せっかく今まで生きてきた空間とは全く別の場所に身を置いているわけですから、いつでもどこでも出来る読書にあまり時間を割くべきではないのだろうなという思いもあり心境としては複雑です。いずれにせよ文献から知識を得る段階は一刻も早く卒業したいところです。  地元の方々とは立ち話程度ですが、僅かながらも交流が芽生えつつあります。調査票をこさえて「少しこの辺の民俗についてお話を聞かせていただきたいのですが」と仰々しくお宅訪問する王道的なやり方をとろうかとも一時は考えたのですが、せっかく1年という長期にわたって居させてもらうわけですので、焦らず自然な形で関係を作りつつ、適宜お話を聞けていけたらと今は思っています。


  また、今回の滞在の直接的なテーマにするつもりはないのですが、地域信仰について面白い発見がいくつかありました。嶋津という新宮市(旧熊野川町)の飛び地があるのですが、「山の学校」代表の柴田さんの用事に便乗して、そこの区長である平野さんのお宅に伺ったときのことです。そこで意外だったのが上醍醐寺という京都の名刹が発した五大力菩薩像のお札が玄関口に貼ってあった事です。相応の年代物でした。洪水を機に現在地に嶋津の集落が移った1852年から、それほど時代がくだらないものだと推測します。これと併せて安産祈願のための本宮大社の牛王宝印も神棚に飾ってあったのですが、こちらは紙に記された年代からいってここ数年内に置かれたものでした。


  熊野と聞くと、すぐさま熊野三山や蟻の熊野詣を連想してしまいそうなものですが、この一件にも何となく示唆されているように、地域の土着的な信仰要素に熊野三山は大した位置を占めず周縁をただ漂っているに過ぎないのではないかと感じています。地域の方にさりげなく話を伺っても大したプレゼンスを見出すことができませんし、今月にあった正遷座百二十年大祭にしてみても地域との連携を欠いた非常にチグハグしたものだったようです。「聖地熊野」のイメージに踊らされて考察を進めることの危うさを感じました。


  一方で熊野川町の各集落には大津荷の国尊仏、敷屋の天神様、山手の子安地蔵をはじめとして昔から大事にされてきた神様仏様がいらっしゃると聞いています。信仰が現在になお生き続けているか、と問われれば、こちらとて心もとないものがありますが、少なくとも一昔前においては、人々の心の拠り所となっていたものではないでしょうか。ただ、まだ現段階では何の根拠もない憶測に過ぎません。滞在中にそれぞれの集落ごとのエピソードが拾えたら面白そうです。


  …今月はこんなところでしょうか。それでは、また来月末にお会いしましょう。 [蛇足かもしれません]